第76回粒々塾講義録

テーマ「現代にメディアを問う〜デジタル時代とメディア〜」


今まさに我々は多メディア時代に暮らしている。
メディアとは何を指すのか。
テレビ、新聞、ラジオ、インターネット、SNS、出版物、写真など。

オリンピックの開催前に一人の作家が亡くなった。石牟礼道子さんである。
「奇病」と言われた水俣病患者の姿を伝える「苦海浄土」を書き、文学を通して世の中の差別や営利主体の企業、国に異を唱えてきた。文学というものがジャーナリズムであることを実証した作品だ。

石牟礼道子さんと写真家の藤原新也さんの対談集「なみだふるはな」という本がある。詩人で文学者の石牟礼さんと写真ジャーナリスト藤原氏との対談と小文。

水俣病の告発に生涯をささげた石牟礼。2011年の東日本大震災での福島悲劇。藤原さんは震災後2ヶ月間に渡って福島の取材を行い写真に記録した。

この本を通して見える国の欺瞞、怠慢。それを表現することは立派なジャーナリズムだ。

晦日に放映される国民的行事 NHK紅白歌合戦。紅白の視聴率はかつて約80%もあったそうだが、昨年は平均38.2%という数字だった。

この背景には何が考えられるのか?この数字の変化から何を読みとるか。

高齢化社会と言われて久しい。昔の紅白は演歌が多く、高年齢層にも親しまれていた。現代では若年の歌手が多く出場している。演歌離れが進んでいる。高年齢者には見ようとする番組では無くなった。
また、昔は他のメディアが無い上、テレビも一家に一台という環境だったが、今は違う。選択肢が広がっている。
紅白歌合戦と言う番組を通して、社会構造の変遷を読み取ることが出来る。

アナログからデジタルに変わったテレビ。現代ではハイビジョン、薄型、壁掛け、多くの種類が出回っている。
デジタルに変わった事で映像の高画質、高音質、データのスピード化、情報量の拡大、更にはそれに伴うネットとの融合、ツイートなどが可能になり、メディアを通して新たなテレビとの接触方法が出来上がっている。

デジタルテレビのチャンネルは地上波、BS、CS。その他のネットTVなども出来た。それらの「テレビメディア」とどう接触するか。「選択と集中」というメディアへの関わり方が必要な時代。
そして、デジタル化により画像までもが加工できてしまう。「虚像」と「実像」がないまぜになっていく。
4K・8Kなどの超高画質のテレビがNHKでは盛んにPRされている。
それらは果たして必要なことなのか。我々が望んだことなのか。

「進化」という言葉でテレビメディアを語りたくはない。
その内容に「進化」はみられないし。

デジタルが進化を遂げるにつれ「メディア」も多様化し、発信のツールが広がってきた。
SNSでは各人が“ジャーナリスト”になりうる。ウソ、デマの懸念ももちろんある訳だが、当の本人が功罪を見極められているかが疑問だ。

今に始まった話ではないが、「伝えたいこと」(報道されること)と「知りたいこと」の乖離が大きいと感じる事が多い。TVで放映されると直感的にそれを真に受ける。知りたい事に関しては現象だけが伝えられている。それらの現象に対しての「解説」が無い。

メディアの役割とは何なのだろう?「知りたいこと」の間に温度差が生まれてしまっている。

スマホ片手にテレビを観る光景がある。
一億総カメラマン時代がやってきたようにも思える。スマホの驚異的な普及で誰もがどこでも気軽に写真を撮れるようになってきたからだ。
実生活に欠かせないコミュニケーション手段になった。
それだけに“写真リテラシー”はより重要さを増してきているのではないか。一億総ジャーナリスト化現象。スマホの普及で価値観や捉え方が変わってきている。時代の流れだろうが、本人がどれだけ理解しているかどうか。
我々のリテラシー能力が問われる時代。それに伴いメディア側のリテラシー能力も問われてくる。
メディアの側にもリテラシー能力が涵養されなければ。

2018年の干支は「戊戌(つちのえいぬ)」。今までの流れが変化する年ともいわれる。
「変化」のヒントを得る為に、60年前(西暦1958年)の時代を振り返ってみる。時代の「還暦」として。戦後10年ほどで、高度成長が予感される中で、人々の暮らしも変わってきた。
60年前にあたことのいくつか。
・国立競技場の設立
・今の天皇陛下の婚約
岸信介政権(今の安部政権の祖父)
・東京タワー(日本電波塔)の設立
・テレビ受信契約数が100万台を突破
・日本劇場による洋楽、邦楽の混在
聖徳太子像の一万円札の発行
・消費生活の革命
・団地族の普及(和式から洋式へ)
・ロカビリーブーム
・フラフープが流行
・インスタントラーメンの誕生(日清)
スバル360(軽自動車)の生産(富士重工業

「変化」という点に着目すれば、今を考え、今後も考えなければならないこともみえてくる。。
家事や軽自動車、フラフープやインスタントラーメンに於ける共通して言える事は、時間の確保と時間の拡大。
いわゆる「時短」(時間の短縮)が可能になってきた。それによって価値観も変貌する。
この様な「変化」の変貌をメディアは見通せてはいなかったし、誰もが想像していなかった。60年前が6年後の今を。
メディアの立ち位置、メディアの精神、そして政治も自分達も。
「変化」の把握と分析、そして展望。

橋本久美江記)

第75回粒々塾講義録

今回のテーマは『現代を考える〜この国は何処へ行くのか〜』 

講義録を書くにあたり、考えさせられたこと、伝えたいことは多々あったが、私なりにとても心に残った部分をまとめてみた。


◆たくさんの『なぜ?』があっても、答えのない『戦争』

冒頭、塾長から頂いたお話は12月8日、真珠湾攻撃の日についてだった。日米開戦の
火ぶたを切った重要な日であるにも関わらず、世の中の関心は低いと塾長は述べた。

戦争はなぜ始まったのか?
負けると分かっていた戦争に、日本はなぜ加わったのか?
なぜ未だに戦争の総括が出来ていないのか?
戦争についてくるたくさんの「なぜ?」に、私たちはもちろん、日本という国は答えを
持たない。あるいは出そうとしないのか、それはなぜなのか?

塾長は勝者によって歴史は作られるが、歴史はそもそも『期間限定の常識』だという。
歴史はしばしば美化され、勝者の側からしか語られない。果たしてそれが真実と言える
だろうか。
今、私たちが常識や正しい、誤りと感じていることは、未来の人にとってはそうではない
かも知れない。私たちも歴史、特に近代・現代史を学び直さねばならないし、特に敗者に
よって語られる歴史も学ぶべき価値がある。
また個人的な解釈で『なかったこと』にするのも許されることではない。歴史は常に書き
換えられるもので『絶対』ではないのだと学んだ。


◆未来を語れる人、語れない人

『未来を語る、未来を示す政治が無い。いや、政治は未来を語らない。語れない』
という項目では、日本は過去(戦争)を清算していないから、未来を語れない、ゆえに
政治は目先のことをどうするかだけに腐心している、と塾長は述べていた。

確かに、少子高齢化も今に始まった問題ではない。変化する時代に対応しきれない法律や
仕組みといった窮屈な囲いの中で、私たちは歪んだまま生きるしかないのか。
政治だけを責めても仕方がないし、自分自身においても、未来を語り、創れる力があるのだろうかと不安になってしまった。
そんな気持ちを見抜いていたのだろうか、塾長は、朝日新聞「声」欄のある投書を紹介した。塾では要点のみの紹介だったが、全文を読みたくなって検索した。
(こういう時、文明の利器に助けられますね…)

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(声)大切な日を行事化しないで 2017年11月2日
 高校生 清藤日向子(青森県 16)

 かつての大きな自然災害や事件が起きた日が近づくと、「あの日から○年」といったタイトルや言葉がテレビ番組などでよく使われる。色々なメディアが特別企画を立てるが、私はその伝え方は間違っていると思う。

 被災者のための募金への協力や事件の新たな真相を伝えても、「その日」が過ぎると何もなかったかのように切り替わる。テレビの情報番組では、誰かの不倫や新しいドラマが話題の中心となる。まるで忘れてはいけない日が、行事化されているようだ。これではただのお祭り騒ぎに過ぎない。

 地震やテロなど非日常的なことが度々起こる世の中で、人は命の尊さや他人を思いやることの大切さを学んでいく。大きな社会の変化があった日を年に一度の「ネタ」にするのではなく、今、当たり前に暮らしていることの幸せに気づく「タネ」として、普段から様々な切り口で被災地や被災者、被害者の現状などを伝えていって欲しい。そうすることで、災害に対する意識を変えたり、犯罪を減らせたりする効果があるはずだ。

 「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。

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塾長は、この投書に感銘した大人が、声欄に投書を寄せたと教えてくれた。そちらも全文を
検索したので以下に紹介する。

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(声)未来を拓く言葉を待っていた 2017年11月7日
大学教員 坂本正彦(静岡県 61)

 青森県の高校生の投稿「大切な日を行事化しないで」(2日)を読んだ。

 「『その日』のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う」

 何と普遍的な価値を持つ言葉であろうか。私たちは未来を拓(ひら)く言葉を長く求めてきていた。この投稿を読んで、改めてそういう気持ちでいる自分を知ることとなった。例えば、ケネディ米大統領が就任演説に「祖国が諸君に何をするかを問い給(たも)うな。諸君が祖国に何をするかを問い給(たま)え」と言ったフレーズは、今でも国を越え、時代を超えて引用される。そういう普遍的な価値をもつ言葉に、私たちは希望を見いだしてきたのだ。

 この国もまんざら捨てたものではない。だが本当は、「選良」といわれる立場の人からそういう言葉を聞きたいのだ

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「選良」とは、代議士の美称であり、選び出された立派な人物のことを表す言葉だ。ゆえに
これは皮肉である。自らの言葉、未来を示す言葉を持たない政治家しかいない現在の日本において、もはや子どもたちにとっての夢や憧れの中に「政治家」は存在しない。

それでも、青森の一高校生のように、社会やメディアの作った空気に流されず、自分の櫂を
持って、大海に漕ぎ出そうとする若い人の存在は希望そのものである。
けれども一方で、彼女をジャンヌダルクのようにとらえてはならないと思う。たった一人の人が社会を動かすのではなく、彼女のような自分の意志、考え方を持った人たちこそが、社会を動かす力になるのだ。
それが彼女の言う「その日のために何かをするのではなく、その時にあったことのために、何かができるように、世の中の今を見る」ということなのだと私は思う。
日々、さまざまなことに関心を持ってアンテナを張り、情報を集め考え選択する。そういうことの積み重ねが、その日にも、今日にも、そして未来にも力になるのだ。

レジュメの最後は司馬遼太郎さんの書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の全文が載せられていた。歴史を研究してきた司馬さんらしい視点であると同時に、ここに記されている
ことは22世紀でも、23世紀になっても色あせることはないだろう。
子どもに向けて書かれた文章ではあるが、司馬さんはむしろ、大人に読んでもらいたかったのではないかとすら思う。

最後に、最近読んだ日野原重明という方の「生きていくあなたへ」という本の中で、心に残った言葉があったので、ご紹介する。

    得たものではなく、与えられたものをどう使うか。

自分に与えられた命、時間、お金、物…(あるいは「病気」も与えられたものの中に入るのかも知れないが)、それらの使い方によって、人生の豊かさが決められると著者は言う。そして彼はそれらを「他者のために捧げる」と決心し、105歳の天寿を全うした。

この本の冒頭には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という、新約聖書ヨハネによる福音書からの言葉が記してあった。死は命の終わりではなく、新しい始まりであると述べる著者の想い。そして、はからずも粒々塾の理念へとつながったことは、偶然ではないだろう。だって「すべてのことに時がある」のだから。

今、自分に与えられているこの時に、塾長や塾生のみなさんとの出会いがあり、学びを通して、知らない自分を発見出来る喜びがあることに、心から感謝を申し上げます。


(郄橋陽子・記)

第74回粒々塾講義録

テーマ「現在を考える〜強者と弱者〜」

強者とはナニか?ダレなのか?では、弱者とは?

自らの入退院の経験から、強者と弱者の関係性を改めて考える機会になった。医療分野においては、強者は医者・看護師であり、弱者は患者である。という塾長の問題提起。

原発から南に約22㎞。福島県広野町にある高野病院(内科・精神科)。東日本大震災で起きた原発事故以降も、自らが避難することなく診療を続けていた高野院長が、昨年末の火災で死亡。高野氏が患者ひとりひとりと向き合い同じ目線に立つことで、強弱という極端なバランス関係ではなく、お互いを尊重しあう関係が築かれていた。高度な先進医療技術の有無ではなく、高野先生の人柄に魅了された人々が自然と集まる場所となっていたようだ。現在、様々な苦難があり、継続することが非常に厳しい状況に置かれている。

以前、話をしたと思うが、「四苦八苦」という言葉がある。

人としてこの世に生を受けたからこそ、すべての人が同様に経験する苦しみの四苦「生」「老」「病」「死」。この四苦に、人であるからこそ感じ得る苦しみの四苦「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」を合わせたものが八苦といわれる。四苦と八苦は、異なる意味を持つ。
片や逃れられない自然の所為。片や人間の感情や欲望。

苦しみの感じ方は一人一人で異なる、だからこそ希望を常に持ち続けることが何よりも重要。

いま、「キボウ」という言葉は、どこか汚されたコトバになってしまった。

「希望」に関する書籍や映画といえば、下記代表作。

1)「この国には何でもある。… だが、希望だけがない。」で有名な、著者村上龍の「希望の国エクソダス」。国に絶望した中学生が「希望」を夢見て起こした変革が壮大なスケールで描かれている。
2) 園子温氏の「希望の国」は、東日本大震災で起きた原発問題を取り上げ、震災後の「絶望」を、あえて「希望」という言葉に置き換えた内容となっている。
3) 金子修介監督によって製作された「希望の党」は、2005年に総務省明るい選挙推進協会により製作された20分の短編映画。
選挙には全く興味がない父と母、真逆に政治への意識が非常に高い娘。映
画内で登場する「希望の党」が政権を奪取すると、恐るべき方向へ流れが進んでゆく。ふたを開けてみれば、とんでもないファシスト政権だった。この映画は、選挙が決まってから、ネット上では削除されている。

「…70代の男性が、わたしとのあいだの空間に、両手で三角と直線を描きました。『あんたには在る。おれたちには無い。在るひとに、無いひとの気持は解らないよ。』柳美里氏の「JR上野駅公園口」からの引用。

戦後の上野駅は、浮浪人のたまり場。ノミ。シラミ。目はギラギラ、獲物を狩るかのような雰囲気を醸し出す「浮浪児」。
カレラは、集団疎開から産みだされた人。集団疎開で地方に移り、空襲後東京に帰ってみたら家がなかった。両親がいなく、家もない。当時は浮浪児狩りが横行し、白い粉を吹き付けられ(シラミ対策)トラックに乗せられどこかに連れて行かれた。。

現代社会で「元浮浪児でした」と名乗り出た人はいない。

現代に目を移すとホームレスとどこかで合致する。
全国で1万人といわれているが、実際のところ国は正確には把握していない。東京オリンピックまでには排除されるであろう。

ホームレスは“社会的な弱者”と見られがちだが、考えようによっては、時間的また精神的にみると誰よりも「自由」を持っているのかもしれない。生き方からみれば、もしかすると強者なのかもしれない。

朝日新聞の歌壇欄で注目を浴びた「ホームレス歌人公田耕一氏。「柔らかい時計を持ちて、炊き出しのカレーの列に2時間並ぶ」。柔らかい時計とは、ダリの時計を意味している。「ダリ」を知るだけの高い知識をもちつつも、ホームレスになる。その心は、自由を求めてなのか。

ホームレスに関連した書籍
・拾った新聞で字を覚えた「セーラ服の歌人鳥居」。
壮絶な人生を歩むも、今は歌人として名を馳せる。
藤原新也の「東京漂流」の光景がその本から浮かんでくる。
彼女の一首。
「書きさしの遺書、伏せて眠れば死をこえて会いにおいでと紫陽花の咲く」
太宰治の「遺書」と通底するものがある。

・原作は村上たかしで、著者原田マハの「星守る犬」。
信号が黄色になったときに、ブレーキを踏んで止まった。電光掲示板に、“白骨化した遺体が見つかった。そのそばには、犬の死体があった。男性は、死後2年。犬は、数か月”と言う字を読んだ作者のモノローグで始まる本。

犬は捨て犬だった。娘が拾ってきたが、その後は男性が世話をした。男性は(おとうさんとハッピーと名付けられた犬は呼んでいる)。リストラ、持病悪化。家族崩壊。男と犬は車で旅に出てたが、お金を盗られ、車のガソリンも底が尽き・・・。
犬と人間の暮らし。困った人や悲しみのどん底にいる人に、語りかける本。

さて、話が変わるが、と塾長。

座席が埋まり、立っている人もちらほらの電車に、ハイキング帰りの50代の男性1人と女性2名が乗ってきた。
3人掛けの席には、茶髪の男性二人。中年男性はこれ見よがしに、「最近の若い者は、年寄りを立たせるのか」と、嫌味をはなつ。
若者は、「あなたがたは今まで山歩きをしてきた。山を歩いたのに電車では立てないの?
おれたちは、これから仕事なんだ。休日働いて、あんたたちの年金をつくっているんだよ。おれらの時代は、優雅に山登りをして、年金をもらってなんて時代は実現しないんだ。どこかの空いてるシルバーシートを探して来たら?」と返答。

塾生に「ある休日の電車の中での話」として、こんな問いかけを。

「さぁ、あなたは、どちらの言い分が正しいと思う?」

世代間。年金。寛容さ。人間力。価値観。未来。過去。世界観。環境。

正解はない。強者と弱者、このようなシチュエーションでは、答えの出ない質問。
人は、様々なシチュエーションで、弱い自分と強い自分を使い分ける。

ぜひ、ご家族で、こんなお話をしてみてはどうだろうか?
いろんな考え方や価値観がみえてくる。

さて、近づく2025年問題。団塊の世代が、後期高齢者。その時に何が起きる?
介護費医療費個人負担。地域包括ケアシステム。シニア施設の人材確保。

日本人だけでは、クリアできない問題がすでに山積している。

国会議員は普段は強者だ。選挙になると、途端に弱者に変身し頭を下げまくる。当選し、バッジをつければ、また強者に戻る。
選挙のときだけ、国民は強者になれるのだ。今回の選挙は大儀のない選挙。国民だけではなく、政治家もわかってない。明確な理由をあげれば、もっと意味のある選挙になるしそうあるべきなのに。
誰も投票するに値する立候補者がいない場合は?投票所に行きましょう。誰もいなければ、白紙で出してもよい。比例で党をかく。政治に参画することが何よりも重要。

Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
ジョン・F・ケネディの言葉。名言。若い世代に向けて発せられた言葉である。
若者を魅了するような言葉を今の政治家は持たない。

一つの社会現象として、「分岐点」は常にある。
例えば、昭和は、スターの時代。石原裕次郎美空ひばり
平成は、アイドルの時代。AKB48の顔ぶれを見分けられる人は、一体どのくらいいるのだろうか?

この50年間、日本の政治家は、「言葉」を持っていない。
現代の政治家の言葉といえば、英語をカナ読みにすることが大流行。
ダイバーシティー・ワイズスペンディング・リセット、アウフヘーベン「何もご存知ないのね、辞書で調べてごらんなさい」と記者に言い放つほど。

映画から本からことばを盗み取り発する。残念ながら印象に残る言葉は何もない。国民に心から発せられた言葉はどこにもない。誰にもわかる言葉で、伝えなければ伝わらない。きっと、それは伝えたい「ことば」が持たないからだろう。

分岐点といえば、下記も代表的な例であろう。
国内の分断。

9.11 アメリ同時多発テロにおいて、宗教観の差別が生まれ、3.11 東日本大震災においては、地域の差別が生まれた。価値観を変えられた人たちの差別が、新しい強者と弱者の流れを作り出している。

近年では、ミャンマーのロヒンギ族。アウサン・スーチは、民主化運動を進めた人間だが、その弾圧に関しての一切のコメントがない。スペインのカタルーニャ独立運動なども一例である。世界各国で、様々な事例が増えつつある。

常に社会のしわ寄せは、弱者に来る。

年収1000万の人間が、200万の生活を語れない。若者を踏み台にして、その上の世代が逃げ切ろうとしている。社会の持続可能性のためにも、早くバトンを次世代に渡すべきだ。

昭和から平成、人口が増えない中、与えられたパイの中で、どのように生きるのか。
内閣府の調査では、今の生活に満足していると答えた若者は73.9%であった。その数値は何を物語るのか?
70%を超えているからいいのか?意図的なメッセージが込められているような。色んな意味で日本という国は、「溶けだして」いる。

塾生の一人から、こんな詩が紹介された。20年前、当時、小学6年生だった子が書いた詩だ。

「私の席」
満員のバスに
おばあさんが乗ってきた
ポニーテールの女の人が
「すぐ降りますので」
と席をゆずった
でも その女の人は
次の停留所でも
四つ目の停留所でも降りなかった
私は胸がいっぱいになって
いつもより一つ早い停留所で
バスを降りた
あのポニーテールの女の人
私の席にすわってくれたかなあ

今回の講義は、選挙前に開催されました。改めて、講義録が大変遅れて申し訳ありません。
いろいろ書きたいことが、たくさんありますが、短めに。

明確な答えが出ることはなくても、常に国の在り方の意見を交換する機会を持つことは大変重要であるかと思います。それは、己の価値観だけではなく、世の中にある多種多様な価値観を学ぶことで、自分の世界観をひろげることができる。
明確な意思表示がなくとも、そのココロを理解できるのが過去から息づいているはずの日本のココロ。
表裏のない「おもてなし」を筆頭に、日本の伝統・文化・慣習などの「ニホンらしさ」は間違いなく世界でも評されるモノである。西洋の考え方や言葉が国内に流入し、日本の良さは希薄になり続けている。
希望という言葉を使うことに躊躇いを感じる自分がいる。本来の意味を失わせられたような違和感はなんだろう。個人的な意見ではあるが、映画「希望の党」は現代版に利用された。「希望の国エクソダス」の一文に関しても同様である。本来、書籍や映画で使われていたソノ意味を、政治に利用し奪い去った罪は大きい。
講義の中で、様々な書籍や映画のオススメを紹介していただきました。時代背景や人物像など、それらに登場するコトバ一つ一つは、作者のメッセージ性を多く含んだものとなっているはずです。主人公の目線に自らを合わせることで、新たな世界観を学びえることができるのだろうと考えます。
「星守る夜」と言う本をを読んで、印象の強かった一文がある。
“見えないくせに、届かないくせに、星を追い求めて夜空を見上げていた私の犬を想った。望んでも、望んでも、かなわないから、望み続ける…人は皆、生きて行く限り、「星守る犬」だ”。
何かを望むことは、長い人生の中で最も重要な要素である。そこに辿りつくまでに、山があり谷がある。だからこそ、ソレを望むのだと。
 強者弱者という構図ではなく、相手を慮る心を持ち、相手の目線に自らが合わせる事が簡単なようで非常に難しい。いつの時代も「言うは易く 行うは難し」。自らを律しながら、私も邁進してまいります。
(菊池亮介記)

第73回粒々塾講義録

テーマ「現在を考える〜歴史の転換点」

「8月6日は何があった日?」塾生への質問から講義が始まった。
1945年 8月 6日  8:15分 広島に原子爆弾投下
8月 9日 11:02分 長崎原子爆弾投下
8月15日  終戦

歴史には転換点がある。先の戦争がそうだった。
戦後72年が過ぎ、日本人の約7割が8月6日に原子爆弾が投下されたことを知らない。これも一つの転換点の象徴だと言える。歴史は繰り返す。知らない人は知る努力をしなくてはならない。努力をして、学んで、学んだからこそ走ることができる。見て、聞いて、知って、学んで、それを伝えていく。日本にはそういう未来が必要であり、“未来”この言葉がこれからのキーワードになってくる。

[今月の推薦図書]
はだしのゲン「わたしの遺書」中沢啓治

非核三原則。核を「もたず、つくらず、もちこませず」
今、唯一の被爆国・日本が持ち続けた理念が揺らぎ、「核を持つことは違憲ではない。」と政府は言いはじめている。日米安保条約非核三原則アメリカの核の傘にある日本。これを信じきってきた日本だったが、トランプ大統領の出現によってこの傘はやぶれ傘となった。日本の安全保障をめぐって言われてきた考え方も転換点を迎えている。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。 〜ビスマルク

経験がなければ現在は無いし、未来も語れない。賢者と愚者。経験と歴史。聖人と言われる人も経験から悟っている。先人の経験から教わることは沢山あり、その経験から学んでいることが多い。

来年終わるであろう「平成という時代」。
再来年、日本の元号が変わり、平成という時代が終わる。ここ100年余り、日本は天皇が変われば元号が変わってきた。元号は時代を区切るのに便利なものだが、変われば何もかも済むわけではない。
私たちは昭和と平成を生きた平成天皇と皇后の姿から、たくさんのことを学んできたが、それがどうなるのか。ここでも転換点を迎えている。

* IT(インフォメーション・テクノロジー) 情報技術。
SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス
個人間のコミュニケーション促進、社会的ネットワークの構築支援、インターネットサービス。
* AI (アーティフィッシャル・インテリジェンス) 人工知能

・3つの事から考えて見る。
① ITから始まってSNSに支配される時代。
スマホの拡がりに代表されるIT機器の拡がり。今となっては誰も否定できないネット社会。
電子マネー、ネット、カメラ、音楽、ナビ。災害地ではツイッターが役に立つこともある。大抵のことがスマホで出来るようになり便利にはなったが、イジメ問題の根底にあるLINE(ライン)、歩きスマホ事故増加など、社会問題化も進んでいる。

南山大学 坂本俊生教授
「今までは自分は情報システムの中での小さな存在の一部だと思っていた人達がSNSの中で自分をひけらかす様になってきた。ひけらかす世代。」

情報技術の進歩により人間関係が希薄になる社会。IT、デジタル、ロボット技術の進歩とAI,人口知能が活躍する時代。車の自動運転化をはじめ、原発事故の処理、医学の世界でもロボットが必要になっている。この転換点を考えたとき、第11回粒々塾「便利さがもたらしたもの」で学んだ「ネットリテラシー」の重要性を思い出す。経済成長の面でも、AI導入で労働コストを削減し、生産性を上げることは出来る。しかし、新しい価値への需要は生み出せない。将来(未来)のことはAIでは出来ない。AIは保守的な性格を持つIT革命の産物であり、過去の延長で未来の予測は出来ても、未来を創ることは出来ない。
しかし、人間は歴史を学ぶことで未来を「革新」できるのだ。

人間はAIに勝てるか?
昔から人間は機械に負けている。人が走って自動車のスピードには勝てない。しかし、人間は自動車に負けたとは思はない。人は自動車を人間生活の補助として使いこなせる社会をつくった。機械との競争ではなく、機械と共存できる社会をイノベーションしたのだ。私たちは人間にしかできない英知を養い、機械頼りではなく、常に機械を使う位置に立つ必要がある。技術革新というものは便利さと人間性との間にある「両刃の剣」。そして、この背景には分散構図1対99(1%の金持ち:99%の一般国民)といった金儲けの存在がついてまわる。

② 人口が減少していく社会。少子高齢化が猛スピードで進行する時代。
人口が減少する時代には転換を促す大きな作用がある。昭和の終わり、福島県の人口は220万から230万人になると言われたが、現在の人口は188万4千人(推定)。人口問題は日本全体の大問題となっている。人が減ると人と人との関係が変わり、それまでの社会システムが維持できず、新たな舞台装置が必要になってくる。それがインターネットだと言うことにも繋がる。
国も的確な政策を打ち出せない。だから「一億総活躍社会」のスローガン。
1億2,700万人の日本の人口は、約50年後の2060年には約8,700万人に減ってしまうという。国はこれを「新3本の矢」で「1億人」に留めるため、経済を成長させ社会保障をはじめ、様々な形での支援を言っているが、15歳〜64歳までの生産年齢人口動態から考えると、今後、労働力は減少し、高齢者が増えていく。それでは社会保障は成り立たないのではないだろうか。
人口問題の学者が口にする「合計特殊出生率」。1人の女子が生涯に生む子供の数を近似する指標だが一般人にはわかりにくい。そして年間10万人の「介護離職者」。介護のために職業を辞める人を指すが、施設をつくり社会保障で支えるのは高いハードルとなる。

これまで、日本の年金は世代の後代負担制という考えで成り立ってきた。自分のためではなく高齢者のために支払うといった世代交代の循環型の思想だったが、すでに崩れている。
経済的理由、社会的価値観から年金を支払わない若い世代が増え、次の世代にバトンを渡せず、いつの間にか単独走になってしまった。私たちは少子高齢化、人口減少の社会で生まれた大きな歪みの中にいる。若い世代の不安を解消するためには、誰もが安心して暮らせて、働ける社会をつくること。それが次の支え手をつくることになる。

③ 世界最大のスポーツイベントとして繁栄しつづけた「膨張五輪」は限界にきている。
2020年7月24日から8月9日に開催される東京オリンピックは「復興五輪」と名付けられているが、被災地と五輪はまったくリンクしていない。そして、何故この時期に開催されるのか。
これはアメリカの3大TVネットワークなどの放送機関にとって都合の良い時期に他ならない。
海外からもたくさんの人がやって来る。しかし、終わったら帰る。消費が伸びるが買わなくなったら落ちる。造った施設、建物がそのまま残る。経済波及は一時的なものであり継続はしない。終わった後は何が残るのだろうか。ここに既得権益者のたくらみが垣間見える。

エスタブリッシュメント既得権益者)が一体となって進める時、市民は懐疑心を抱く。なにかおかしいことをたくらんでいると」。 〜IOCバッハ会長〜

2020年以降のオリンピック候補地はパリとロサンゼルスしかない。そのあとはどこもない。
平和の祭典での熱狂の中、過去はある程度、経済成長とリンクしてきたが、これからのオリンピックは、開催国の経済・財政事情とは相反することになる。

復興五輪とは何か。どうしても復興には結びつかない。
元女子マラソン選手、IOCスポーツと活動的社会委員会メンバーの有森裕子氏も、やわらかくオリンピック返上論を言い出している。オリンピックファーストとアスリートファーストいう言葉が生まれているが、とくに有森はアスリートファーストに対して違和感を表明している。

オリンピック憲章 第1章6−1
「オリンピック選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」

しかし、今や誰もが国家間の競争オリンピックだと思っている。東京オリンピックの招致に関わってきた有森はオリンピックに関わる人間関係、金銭といった裏を見て、選手をアスリートといった綺麗ごとで競技させることが選手のためになるのか。東京オリンピックの招致の一番目的は復興だったはず。スポーツによって日本を元気に変えよう。手本になる国を目指そうとしたが今は違う。
どこを向いているのか。何をやろうとしているのか。「スポーツも文化もすべて社会で人間がきちんと楽しく、平和に健康でいられるための手段の一つ」。社会手段の一つなら、オリンピック、アスリートではなく、社会ファーストであるべきだと言っている。

昔から「オリンピックは政治に関わらない。政治はオリンピックに関わらない。」と言われてきたが、純粋なものではなくなった。このままだとオリンピックはロサンゼルスで終わるのではないだろうか。
オリンピックの意義を考える。このことも転換点の一つ。

以上、今回の講義は大きな時代の転換点を迎えている日本を「ITとSNS」、「人口の問題」、「五輪(オリンピック)問題」。3つの切り口で、歴史の転換点から考えるという内容だった。

塾長曰く、転換期には一度立ち止まって考える。これが必要。現在の日本は立ち止まっていない。走ろうとしている。一呼吸が大事。人間の体も心も国も一呼吸することで、一旦停止することで持続可能になるのではないだろうか。

第11回粒々塾メモの一節。
夏目漱石の言葉。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許して呉れたことがない」。先人の言葉は深い。

講義録を記しながら、6年前を振り還った第73回の粒々塾であった。

(宮川記)

第72回粒々塾講義録

第72回は「現在を考える」〜自由を生き抜く〜がテーマ。
長らく産休でお休みしていたSMさんも久しぶりに出席してくれて、活気のある例会になりました。

今日のテーマを考えるにあたり、冒頭、塾長から「真理がわれわれを自由にする」という言葉が紹介された。これは、国立国会図書館東京本館の目録ホールに、日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣でもあった初代館長金森徳次郎の筆跡で刻まれている言葉です。
この言葉は、国立国会図書館法の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」の一部で、国立国会図書館の設立理念ともいうべきものです。

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国立国会図書館法案が議決された昭和23年2月4日の衆・参両議院本会議での説明を見ると、「国立国会図書館は、知識の泉、立法のブレーンになる。あらゆる材料をここに集め…文化の促進をはかり、産業の高揚をはかる仕組である」(中村嘉寿衆議院図書館運営委員長)、「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のため任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない」(羽仁五郎参議院図書館運営委員長)という趣旨のことが述べられています。
むろん、民主主義は、ひとり国会議員が情報を持つことにより実現するわけではありません。国民が情報を持つこともまた民主主義の不可欠の要素です。このため、国立国会図書館は、「真理がわれらを自由にする」の理念の下、国会に奉仕するとともに、国民の情報ニーズにも応える機関として位置づけられています。
国立国会図書館ホームページから抜粋)

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上記は国立国会図書館のHPの一部ですが、戦後の日本の礎を築こうと尽力した人々の思いが伝わってくるように感じます。そんな切り口から現在を考えてみるとどんなことが見えてくるのか、今回の塾のテーマだと感じました。

次に講義は、サブタイトルの〜自由を生き抜く〜。ということに進みます。

以前の塾で紹介された2011年3月東日本大震災があった年の立教新座高校を卒業する生徒に校長先生の祝辞で語られた。

海をみる自由」「立ち止まる自由」。
そこで校長先生が伝えようとした自由の意味。そして現代の状況は???
伝わりくる世相からは侵される自由や息苦しさが蔓延していないか。

以前、塾生が塾長に投げかけた疑問。
自由の反対は何かと。

塾長は自由の反対は「空気」と「社会」なのではないかと言う。

震災直後の9月の塾では山本七平の「空気の研究」という本を材料に、「個々人の価値観の確立」「ぶれない人生観の確立」を考えたが、それを振り返りながら再度「空気」ということを考えてみる。

・空気とは誠に絶対権をもった妖怪である。一種の超能力かも知れない。
・それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。

空気の研究は昭和52年に書かれた本であるが、現代の状況を予見しているように映る。
歴史を知るということは現在を確認するということではないかということに、そのとおりだと思った。

最後に、今後も大きく変化していく世界と日本において必要な能力や知性とは何かを考えます。
対多様性があること。意志の自由を持つこと。選択できることが自由だと考える塾生。
当たり前を深めることが知性などの意見が飛び交います。塾生のみなさんの熱と感性が伝わってきました。

最後に「自由を生き抜く」とは、その個々の価値観を大切にすることではないかとまとめられた。何度も塾長から出ている「価値観」というキーワードを改めて塾生の皆さんと議論し確認できた。

これまでに、多様なテーマで72回の講義が開かれました。
「言葉と文化」「空気の研究」「メディアの力」「東北学」「民主主義を考える」etc…
これらのテーマを通じて豊かな未来を希求していくために学ばなければならない一本の軸が私の中でつながった。
(Mocch 記)

第71回粒々塾講義録

テーマ 現在を考える〜“らしさ”の研究〜


4月の講義は松尾芭蕉の句から始まりました。
「命二つ中に活きたる桜かな」
この句には再会の喜びをあらわしているだけなく、命とは一人で支えるものではなく、親や友人など多くの人に支えられながらいきています。自分の命は自分だけでなく、相手にとってもかけがえのないものであります。命の尊厳を感じる句です。

※この社会には「らしさ」とう名の思い込みに満ち満ちている

広辞苑によると根拠や理由のある推定を表す言葉ですが、「らしさ」という言葉は、多くの名詞とつながり様々な場面で使われています。子供らしさ、親らしさ、男らしさ、女らしさ、社長らしさ、政治家らしさなど、しかし、「らしさ」という言葉を真剣にかんがえたことがあるのだろうか?

例えば、子供らしさ。
ある公園のトイレにランプがありました。「このランプが点灯していたら多目的トイレの中で、困っている人がいるサインです。手をかしてあげて下さい」という張り紙がしてありました。子供らしく素直に考えれば、ランプが点灯しているのを見て、中の人を手助けしてあげようとする。しかし、親は「ランプが点灯しているときは知っている大人の人をよんでくるのだよ」と今では教えるといいます。なぜなら、良くないことを考えている人がランプを点灯させているかもしれないと親は考えているからなのだろう。この話の中にも現代の社会における、子供らしさ、親らしさがそれぞれ含まれている。


※ 男らしさについて

この社会のなかで男性は、男らしさの固定概念の中で生きてきました。
男は泣いてはいけない、弱音を吐いてはいけない、強くなくてはならない、何歳までに結婚して女房と子供養わなくてはいけない、一生懸命仕事して良いパパでなくてはならない男らしさにしばられている男性たちが息苦しく生きている。
このような男らしく生きてくことができない男性たちが抱え込んでしまう問題を男性問題とする。
男性問題とは男の弱さの問題。自分自身の弱さを認めることができない弱さ。

脳性麻痺の医師 熊谷晋一郎氏によると
「人は一人ひとりに弱さがある、弱さをシェアして、つながり、依存できる、そういう社会であってほしい。ところが、男性には弱さをシェアする場がないという問題がある。」といっている。
 現代社会においては、男性が弱さを見せると低く見られてしまうなどの、一面的な見方をされてしまう。働き盛りの男たちは、父親らしさ、男らしさに悩んでいる。自分の弱さを認め、受け入れることができないと、被害者意識が高まり、他人に対して攻撃的になってしまう。そして、被害者感情の爆発。
これは自己否定であり、自己嫌悪ではないのか?

社会から押しつけられる「男らしさ」から抜け出すための、現代の男らしさをかんがえてみると、弱さを抱えて葛藤しながら、自己否定でも、自己嫌悪でもなく、受容でもない状態で、他者とのつながりの中で弱さを肯定できることではないのだろうか。逆説的ではあるが、弱さを認めることは女々しいことではなく、実は男らしいことなのではないだろうか。

男らしさという言葉にしばられることなく、「男は強くなくてはいけない」から「男は弱くてもいい」という発想に切り替えいることも必要ではないだろうか。


与謝野晶子が語った「女らしさ」について

家庭と仕事の両立が難しい中、女性が家事・育児をするのが当然との価値観が未だ残り、長時間労働が難しいため職場では半人前と思いこんではいなかっただろうか。この様な見方について、私たちは女性の側だけの問題だと思っていなかっただろうか?女性らしさの呪縛から男女ともに解放されなくてはいけない。
さらに、未だに女子寮や女性の家賃補助、女性に対する試験の得点加算など、女性に対する様々な支援がおこなわれている。女尊男卑ともいえる。しかし、女性が優遇されるこれらの制度は、逆に女性差別につながっているのではないかとさえ感じてしまいます。これらは、「女らしさ」という固定観念にみんながとらわれているためにそれぞれの人が本来もっている学力、能力、体力を過小に評価してしまっているのではないでしょうか?

この社会には、「らしさ」という名の思い込みがいまなお満ち満ちています。私たちは「男らしさ」や「女らしさ」という固定観念にとらわれることなく、本来の「人間らしさ」を求めていかなくてはならない。

だからこそ、男女平等社会についてもう一度考えるが必要がある

※ 「優生思想」

昨年の相模原で起きた事件をとおして、命の重さをかんがえてみる。

優生思想とは、個人を役に立つ人間と役に立たない人間にわけてしまうような偏った考え方で人間の生命に優劣をつけてしまうこと。これは社会に不満を持つ加害者の思想だけの問題としてしまってよいのだろうか。

全盲と全ろうでありながら東京大学先端技術センターの教授を務める福島智氏によれば、
「今の日本を覆う新自由主義的な価値観と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には、多くの人が巻き込まれていく。役に立つ、役にたたないといった生命を価値的に見ていくみかたは、“自分も含めた”生命的価値を軽視・否定することにつながっていくはずだ。」
と現在の社会に対して警鐘をならしてます。

生命という言葉には、そもそも価値という言葉を結びつけるものではではないのです。すべての人間の生命には「尊厳」があるのです。あなたは何ものにも変えられないものです。あなたの代わりはどこにもいないのです。

尊厳という言葉で、人生をみつめてみると生命はかけがいのないものであるとわかります。しかし、現代の社会はヘイトクライムと呼ばれる犯罪が拡がっています。しかし、この憎悪に対するには「学び」しかない思います。学ぶことで他者、自然、社会、そして、みずからとつながっていけるのです。

“人は一人では生きていけない”。

松尾芭蕉の句から始まり、吉野弘の詩で終わる今回の講義は、「らしさ」という言葉にしばられている自分自身に気付かされ、「生命」について改めて考える講義となりました。

私たちは「学び」を続けなくてはならない。

今月の本
加賀乙彦「不幸な国の幸福論」(集英社新書

(齋藤邦昭記)

第70回粒々塾講義録

テーマ「現代を考える」〜言葉の現在地〜

今、我々が生きている社会とはどういう社会なのか。
格差社会とは何か。インターネットやマスコミから発せられる情報の数々。何が正しいのか、それを考えるにはあらゆる価値が氾濫しすぎており、混沌としていると言わざるを得ない社会。

民主主義は壊れてしまったのか?。今の社会からは。

一部の若者には、平和を得るための戦争が存在するという“パラドキシカル”な意見も出される時代。それを問いかけられた時、答えが用意されていない、答えを持ち合わせない時代。

社会には課題と問題が存在する。

問題は解決出来るもの、または人から与えられるもの
課題には答えがない。なぜなら自分で見つけるものだからだ。

問題は課題になりうる。その答えを導き出すためには、自らで考えることであり、知識はいらない。

今から10年前の言葉、出来事を考える。その一つにKY(空気読めない)という言葉があった。
10年一昔というが、10年と言うスピードは、昔の感覚と今とでは違う。

10年前のKYは空気読めないだったが、今では逆の意味に取り上げてもいいのではなかろうか。

10年前、AI(人工知能)もドローンもなかった。
現在、平然と入り込んでいる。
技術の進歩が人の働き、暮らしを変えた。
「10年後存在しないかもしれない 本と言葉と職種と我と」 佐々木 定綱 が詠んだ句だ。
本も、ワンクリック、ポチッとで自宅まで届く。
遺伝子の操作で目の色、知能、肌の色まで操作できる。
技術は我々をどこに連れて行くのだろう。
社会を便利にするのか、監視するのか。

では、今から10年後どんなコトバが残っているだろう
フェイクニュース・・・そもそもはジャズのなかで崩すという意味だったがそれが、嘘に変わってしまった。こういうたぐいのものは残る。
今のフェイクニュースは広告収入と繋がっていて、儲かれば、終わってしまう
だれかが面白半分でやったことが社会に影響を与える。

ポストトゥルース
真実以降は、真実のあとは、直訳はそうだが、もう一つの真実と訳されている。   
最近ではイギリスでもそうだったEU脱退、客観的な事実ではなく感情的な訴えが政治的に与える影響

ファクトチェック→政治家が言ったことをチェックする

我々は走り続けてきた。

戦後、経済成長を目指して必死に走ってきた。
昭和39年東京オリンピックが一つの契機だ。”欲望“は飽き足らなかった。

欲望をくすぐる経済活動。
途中に立ち止まればなんとかなったのか?夢のある良い国、それは人それぞれでわからないが一億総活躍社会の裏に潜むのは?どの世代も活躍する社会
必要とされる社会を目指す。
過去の「一億総火の玉」と言ったスローガンを彷彿とさせる。

スベトラーナ・アレクシェービッチ  ウクライナノーベル賞作家の話しがあった。

3回ほど福島訪問し、「ただひたすら聞き、それをそのまま書き綴ることが文学」と言い、
日本人には抵抗という名の文化がないと語る。(和を以て尊しとなすという、倭人文化も
関係しているのでは?と個人的にみる。)
以前紹介された茶色の朝という本のようになるのか?

講義を拝聴して民主主義おいて大事なことは客観的な視点を持つ上で
知識、教養は最低限必要かと

(佐藤記)