第75回粒々塾講義録

今回のテーマは『現代を考える〜この国は何処へ行くのか〜』 

講義録を書くにあたり、考えさせられたこと、伝えたいことは多々あったが、私なりにとても心に残った部分をまとめてみた。


◆たくさんの『なぜ?』があっても、答えのない『戦争』

冒頭、塾長から頂いたお話は12月8日、真珠湾攻撃の日についてだった。日米開戦の
火ぶたを切った重要な日であるにも関わらず、世の中の関心は低いと塾長は述べた。

戦争はなぜ始まったのか?
負けると分かっていた戦争に、日本はなぜ加わったのか?
なぜ未だに戦争の総括が出来ていないのか?
戦争についてくるたくさんの「なぜ?」に、私たちはもちろん、日本という国は答えを
持たない。あるいは出そうとしないのか、それはなぜなのか?

塾長は勝者によって歴史は作られるが、歴史はそもそも『期間限定の常識』だという。
歴史はしばしば美化され、勝者の側からしか語られない。果たしてそれが真実と言える
だろうか。
今、私たちが常識や正しい、誤りと感じていることは、未来の人にとってはそうではない
かも知れない。私たちも歴史、特に近代・現代史を学び直さねばならないし、特に敗者に
よって語られる歴史も学ぶべき価値がある。
また個人的な解釈で『なかったこと』にするのも許されることではない。歴史は常に書き
換えられるもので『絶対』ではないのだと学んだ。


◆未来を語れる人、語れない人

『未来を語る、未来を示す政治が無い。いや、政治は未来を語らない。語れない』
という項目では、日本は過去(戦争)を清算していないから、未来を語れない、ゆえに
政治は目先のことをどうするかだけに腐心している、と塾長は述べていた。

確かに、少子高齢化も今に始まった問題ではない。変化する時代に対応しきれない法律や
仕組みといった窮屈な囲いの中で、私たちは歪んだまま生きるしかないのか。
政治だけを責めても仕方がないし、自分自身においても、未来を語り、創れる力があるのだろうかと不安になってしまった。
そんな気持ちを見抜いていたのだろうか、塾長は、朝日新聞「声」欄のある投書を紹介した。塾では要点のみの紹介だったが、全文を読みたくなって検索した。
(こういう時、文明の利器に助けられますね…)

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(声)大切な日を行事化しないで 2017年11月2日
 高校生 清藤日向子(青森県 16)

 かつての大きな自然災害や事件が起きた日が近づくと、「あの日から○年」といったタイトルや言葉がテレビ番組などでよく使われる。色々なメディアが特別企画を立てるが、私はその伝え方は間違っていると思う。

 被災者のための募金への協力や事件の新たな真相を伝えても、「その日」が過ぎると何もなかったかのように切り替わる。テレビの情報番組では、誰かの不倫や新しいドラマが話題の中心となる。まるで忘れてはいけない日が、行事化されているようだ。これではただのお祭り騒ぎに過ぎない。

 地震やテロなど非日常的なことが度々起こる世の中で、人は命の尊さや他人を思いやることの大切さを学んでいく。大きな社会の変化があった日を年に一度の「ネタ」にするのではなく、今、当たり前に暮らしていることの幸せに気づく「タネ」として、普段から様々な切り口で被災地や被災者、被害者の現状などを伝えていって欲しい。そうすることで、災害に対する意識を変えたり、犯罪を減らせたりする効果があるはずだ。

 「その日」のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う。

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塾長は、この投書に感銘した大人が、声欄に投書を寄せたと教えてくれた。そちらも全文を
検索したので以下に紹介する。

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(声)未来を拓く言葉を待っていた 2017年11月7日
大学教員 坂本正彦(静岡県 61)

 青森県の高校生の投稿「大切な日を行事化しないで」(2日)を読んだ。

 「『その日』のために何かをするのではなく、その時にあったことのために何かができるように、世の中の今を見ることが私たちには必要だと思う」

 何と普遍的な価値を持つ言葉であろうか。私たちは未来を拓(ひら)く言葉を長く求めてきていた。この投稿を読んで、改めてそういう気持ちでいる自分を知ることとなった。例えば、ケネディ米大統領が就任演説に「祖国が諸君に何をするかを問い給(たも)うな。諸君が祖国に何をするかを問い給(たま)え」と言ったフレーズは、今でも国を越え、時代を超えて引用される。そういう普遍的な価値をもつ言葉に、私たちは希望を見いだしてきたのだ。

 この国もまんざら捨てたものではない。だが本当は、「選良」といわれる立場の人からそういう言葉を聞きたいのだ

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「選良」とは、代議士の美称であり、選び出された立派な人物のことを表す言葉だ。ゆえに
これは皮肉である。自らの言葉、未来を示す言葉を持たない政治家しかいない現在の日本において、もはや子どもたちにとっての夢や憧れの中に「政治家」は存在しない。

それでも、青森の一高校生のように、社会やメディアの作った空気に流されず、自分の櫂を
持って、大海に漕ぎ出そうとする若い人の存在は希望そのものである。
けれども一方で、彼女をジャンヌダルクのようにとらえてはならないと思う。たった一人の人が社会を動かすのではなく、彼女のような自分の意志、考え方を持った人たちこそが、社会を動かす力になるのだ。
それが彼女の言う「その日のために何かをするのではなく、その時にあったことのために、何かができるように、世の中の今を見る」ということなのだと私は思う。
日々、さまざまなことに関心を持ってアンテナを張り、情報を集め考え選択する。そういうことの積み重ねが、その日にも、今日にも、そして未来にも力になるのだ。

レジュメの最後は司馬遼太郎さんの書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の全文が載せられていた。歴史を研究してきた司馬さんらしい視点であると同時に、ここに記されている
ことは22世紀でも、23世紀になっても色あせることはないだろう。
子どもに向けて書かれた文章ではあるが、司馬さんはむしろ、大人に読んでもらいたかったのではないかとすら思う。

最後に、最近読んだ日野原重明という方の「生きていくあなたへ」という本の中で、心に残った言葉があったので、ご紹介する。

    得たものではなく、与えられたものをどう使うか。

自分に与えられた命、時間、お金、物…(あるいは「病気」も与えられたものの中に入るのかも知れないが)、それらの使い方によって、人生の豊かさが決められると著者は言う。そして彼はそれらを「他者のために捧げる」と決心し、105歳の天寿を全うした。

この本の冒頭には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という、新約聖書ヨハネによる福音書からの言葉が記してあった。死は命の終わりではなく、新しい始まりであると述べる著者の想い。そして、はからずも粒々塾の理念へとつながったことは、偶然ではないだろう。だって「すべてのことに時がある」のだから。

今、自分に与えられているこの時に、塾長や塾生のみなさんとの出会いがあり、学びを通して、知らない自分を発見出来る喜びがあることに、心から感謝を申し上げます。


(郄橋陽子・記)