第80回粒々塾講義録

「現代にジャーナリズムを問う 〜広告と文化〜」

第80回の講義は、広告というものについて考える回であった。

*広告は何を売るのか
「広告とは「何」を売っているものなのか?」
このような問い掛けから講義は始まりました。
広告とは実は商品やサービスを直接売っているわけではなく、そのイメージを売っているものである。例えば、かつて街角に来ていた「金魚売り」などは、「金魚〜、金魚〜」の声を聞くことで、季節の移り変わりや涼しさを想像することができた。これがイメージを売るという広告の原点かもしれない。

*広告と時代背景
20世紀といえば「戦争の時代」「戦争の世紀」であり、その後は「科学技術の世紀」などいろんな顔を持っていた。そんな中、「大量生産」「大量流通」「大量消費」という大きい歯車の中に人々は組み込まれてきた。そして今や「大衆消費社会」。そのエンジンを蒸かしてきたのはテレビでありネットだ。その中に広告の存在がある。

*広告には「見張り」と「批評」の機能がある
見張り機能とは、外界に起きている出来事についていつも見張っていて、人々に関わりのあることを素早く知らせること。批評とは出来事を単に知らせるだけでなく、どう受け取ったら良いかという批評的視点を加えることで、人々に判断の手助けをすること。この見張りや批評の機能に必要なことはジャーナリスティックな感覚。そして、ジャーナリスティックな感覚とは、時代の今に共振するセンス。常に時代の空気に共振するセンスを持っていなくてはズレた見張り役になってしまう。

かつて、西武デパートで「おいしい生活」というコピーを使っていた時があった。糸井重里さんが作ったこのコピーは、時代が単なる「豊かさ」ではなく、生活全般の「おいしさ」を求めるように変わって行くことを示していた。この広告は時代が変わっていくことの見張りの機能をもっていた。
「たくあんひと切れと、松坂牛のステーキと、実はどっちもおいしいわけで。
豪華客船に乗っての世界一周旅行と、ちょいと近くの温泉へなんて旅とでは、
やっぱりどっちもおいしそうなわけで。
そんなはずはない、なんて言う人もいるかもしれないけど、要はキモチの問題であると、思うんですね。おいしさには、順位がない。
そこが、イイと、思うわけで。
だから、「おいしい生活」というのは、とても近いところにも、
遠いところにもあるはずなのです。西武、地下から屋上にいたるまで、
おいしさの素がい〜っぱいありますよ。」
このような言葉が載っていた。

それから、JR東海には「そうだ 京都に行こう」というコピーがあった。
まさに20世紀になって出来た夢の乗り物新幹線。しかし、私たちにはうっかり19世紀においてきた忘れ物がある。それはどこにあるのか?そうだ京都にいけば見つかるかもしれない。「バブルの夢がはじけた後、なにか大切なものを失ったことに気づいたという気分。」それをこの「そうだ京都行こう」のコピーが表現していた。

インスタントラーメンに「Are you hungry?」というコピーの広告があった。
インスタントラーメンのCM。我々はhungryを克服するために20世紀を費やしてきた。しかし、21世紀にも単なる不足というのではない別のhungryという感覚を生み出してしまったのでは?

*ジャーナリズムとコマーシャリズム
80回にわたるの講義の中で、何回かジャーナリズムとコマーシャリズムの一致という話をしてきた。かつて朝日新聞福島県版にこのような文章を書いたことがある。
「いうまでもなく、民間放送の経営はスポンサーからの広告収入によって成り立っています。コマーシャルなしには成り立ちません。コマーシャルには大きく分けて「タイム」と「スポット」という二つがあります。タイムは番組の提供スポンサーとなること。スポットとは正確にはパーティシペイティブ・コマーシャル、番組と番組の問をメーンに単発的にスポンサーとなることです。
草創期はともかく、いまテレビはジャーナリズムの一翼を占めています。報道番組だけでなく、ドラマでもエンターテインメント系でも、バラエティーでも、ジャーナリズム精神が求められるべきもの−それがテレビの有り様だとおもっています。であるからこそ「ジャーナリズム」と「コマーシャリズム」の一致をはかることが、我々の存在意義をかけた「課題」として提示されているのです。
コマーシャルの提供者は企業か県などの公共団体です。企業は商品を消費者に売っています。消費者のニーズが反映されない限り商品は売れないでしょう。ということは企業は消費者—視聴者の代表です。企業に受け入れられない番組は視聴者に受け入れられないと。」(1997.10.16 朝日新聞


 広告と批評は対極にあるように思われるが、書評を読んで本を買いたくなったり、映画評を読んで映画を見に行くということがある。これは批評が広告として作用していると考えられませんか?
 優れた広告には多かれ少なかれ、人々の日常生活に対する“批評”が含まれている。

 例えば、ダイワハウスで一ノ瀬メイという生まれながらにして右腕のないパラリンピックを目指す水泳選手を起用したCMがある。腕がない事をヘンだと思わず水泳に打ち込んでいる姿を映したCMです。これは身障者差別に対する批評を広告ながらもっている。また、ダイワハウスのCMで大きい家に住みながらも狭い空間が好きな男性を描写しているCMがあるが、これも身の丈サイズの生活をしていますかという問いかけをしているように思える。

 かつて森永製菓に「大きいことはいいことだ おいしいことはいいことだ」というCMがあった。それまで小さな暮らしをしていた人達に「おおきい」や「おいしい」などの贅沢なことの開放感を訴えたCMであった。

 CMで批評というのを考えるとこんな例もある。先に「Oh!モーレツ」で有名なCMが一世を風靡し、それからしばらくして「モーレツからビューティフルへ」という風に、CMが移っていきました。時代の見張り番としての役割を広告がこのうまいコピーを通して滑り込ませている。

 それから、「24時間戦えますか?」というコピーのCMがあった。これも時代が経って現在の働き方改革の話しにつながってくる。働き方についてうまく表現しているのが、BOSSのコーヒーCMの宇宙人ジョーンズさん。うまいことを言っている。

 テレビには1社提供の番組がある。例えば、日立が提供している「世界 不思議発見」という番組などです。この日立のCMで有名なのは、「この木なんの木 気になる、気になる」のCMです。文明的で便利な生活を提供するというコマーシャルの中に背景に常自然を写すことで日立という会社は自然環境の大切さを忘れないでいるという無言のメッセージを伝えている。
 そして、忘れられないのは富士フイルムのCM。樹木希林さんの「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」。というCMは当時の何でもより美しくなろうとすることへの警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
 広告というのは、他との差別化を図るのが本当の目的だったのだが、差別化という言葉は使われなくなってきた。差別化という言葉が世の中を席巻してしまって、何でも差別化と言われるようになってしまい、差別という言葉が、悪いことではなくなってしまった。
テレビなどが持つ影響力の大きさと世の中で使われる言葉というのは慎重でなくてはいけないと思う。
 近江商人の「三方良し」に象徴されるように商人と顧客の関係は直接的な関係だった。本来、パーソナルとパーソナルな関係だったものが、今では生産者と消費者という漠然としたものに変わってしまった。そこから広告というものが重要な位置を占めてきた。

広告批評天野祐吉
 かつて、「広告批評」という雑誌があった。天野祐吉さんと島本路子さんという方が主に編集者として作っていた雑誌。批評する広告を批評するというこの雑誌は、広告業界に関わる人間には必読の書だった。30年続いたこの雑誌はもう休刊になっている。
 休刊したのは、マスメディアが終わったわけではなく、マスメディア万能の時代、テレビにCMを出しておけば、単純に商品が売れるという時代が終わったのだ。マスメディアという大きい器全体が変わろうとしている。広告だけの話ではない。マスメディアは大衆全体に大量消費、大量生産をうながし、がんがん盛り上げていく装置として機能してきた。その大枠の構造自体が変化してきている。

マスメディア広告に関していえば、Webがでてきたことで、テレビCMにふさわしい内容の広告に専念できるかという本音が出てきた。今のテレビCMにふさわしい内容は企業のオピニオン・姿勢を示すことである。「広告批評」は長年そのCMのクリエイティビティの批評者・消費者にとって広告が有益なものになっているかの見張り役としてその役割を担ってきたのだが、そろそろその役割はおわったのかなと思い、天野さんは広告批評という雑誌を休刊させることにした。

 天野さんが朝日新聞に連載した「CM天気図」というコラムをまとめた本があります。3.11の東日本大震災の時のあとに書いたコラムがあります。
阪神淡路大震災の後に流れた公共CMは、よかったように思う。とくに印象的だったのは被災地に残っている水道の蛇口を写した映像におじさんのこんな声がかぶさるCMだった。「水、出てるよ、水、持ってって、そやけどナマでのまんといて、ぽんぽんこわすよってに」ほかにも、瀬戸内寂聴さんや森毅さんが被災者の人を励ますCMも記憶に残っているが、とにかくそこには”現場”があった。単なる場所としての現場ではない。状況としての現場である。
凝った設定やコピーはいらない。みんなに親しまれている文化人やタレントが、手持ちのビデオカメラの前で励ましの一言を語る。
 3.11の後にしばらく企業CMがなくて、ACのCMばかりが流れていました。このACは阪神淡路大震災の後に変身して、良くなったのです。我々が経験した3.11の時のACのCMと阪神淡路大震災の時のACのCMは少し違うのです。ACについては、このようにも書いている。
「ACのCMにタレントが続々出るようになった。それはいいが「部屋の電灯はこまめに消そう」とか「無駄な通話やメールはひかえよう」とか、スローガンを読むだけではもったいない。彼らには自分らしい言葉でエールを送ってほしい。カメラを見つめたままことばを失っている人がいたっていいじゃないか。

いまの世の中の空気とぎくしゃくしてる感じのものが多い。CMは本質的に”グッドニュース”だから、今の世の中ではどうしても浮いてしまうのは仕方のないことだろう。が、こんなときだって、ぎくしゃくしないCMもあると思う。例えば、宇宙人ジョーンズ氏のBOSSのCMやソフトバンク白戸家のCMなどは、いま流れても違和感はないのではないか。そのわけははっきししている。そういうCMの中には、いまという時代へのささやかな批評の目がユーモアのセンスにつつまれて生きているからだ。
「いまの世の中、どこかヘンだね」とか「もっとみんな人間らしく生きたいね」とかという思いが、その奥に感じ取られるからだと思う。それはテレビの番組についても言えることだ。ま、無理とは思うけれど、この際ACのCMは、そういうところにも思いきって口を出してほしい。たとえば、テレビショッピングみたいな番組の前にこう入れる。「必要もないのに買うのはやめよう」で、番組の終わりにはこうだ。「くだらないテレビはこまめに消そう」これって、節電にもなるし。」このようにチクチクと批評していく。CMというものを文化的に捉えて、どう時代にあうかを考えている。こういう人がいて、広告というものを批評してくれると、我々は非常に勉強になるし、わかりやすくなります。

*日本の総広告費
 日本の総広告費というのは、6兆3900億円程度になっています。毎年、少しずつ上がっています。全体では上がっていますが、新聞の広告費は94.8%、テレビは99.1%と下がっています。インターネットだけは115.2%という大きな伸びを示しています。テレビの広告費が下がっているということはテレビの作っているものの価値が下がっているということです。だから、同じような番組ばかりになってします。
 NHKは受信料で成り立っているから、制作費に恐怖感は持っていない。ニュースはともかく、NHKスペシャルなどに大きな予算をかけて作ることができる。さらには、NHKスペシャルだけでなく、水中無人カメラを入れたりして、海の中の生態を捉えた番組などがつくれる。しかし、今の民放ではそんな番組は作れず、同じような人が出て、同じような番組ばかりになってしまう。
 オリンピックを目指して、NHKは4Kや8Kなんていう放送を開始する。我々にとっていったいどんな意味があるのだろう?画像がこれ以上きれいになる必要があるのだろうか?しかし、今はそういうところにのみお金が投下されていて肝心の番組制作が疎かになっている。民間放送のテレビは唯一戦争を知らないメディアなので、戦争というものに対して真摯に取り組んで番組作りをしてほしいのだが、そういう環境ではなくなってしまっている。これから2020年の東京オリンピックを目指して、冷静になって、どこか批判的な目を持ってテレビをみていると面白いと思う。

 天野さんが亡くなって、よりテレビが劣化している気がしています。今では「宣伝会議」という雑誌しかない。広告は手を替え、品を替えいろいろな広告を出してくる。
しかし、そういう広告という一つの文化に対する評論がなくなってしまった、垂れ流される広告に無反応に見ている。そういうことに気づくべきだと思う。

 この広告業界の中で、大きな地位を占めているのが広告代理店という存在です。そして、日本で一番の広告代理店は電通です。電通で高橋まつりさんという女性が過労自殺した。しかし、そのことに対して、メディアの批判的論調がいかに少ないか?これは、電通を敵に回すと新聞もテレビもやっていけないくらい肥大化してしまった。今や広告代理店がなくては、成り立たなくなってしまっている。しかも、電通というのは東京オリンピックの運営も行い、選挙では政党広告を行っている。広告代理店は企業の意向は代弁するが、メディアの意向は代弁しない。いまやメディアは肥大化する広告代理店におびえ、代理店の向こう側にいる企業の意向を忖度している。しかし、広告代理店で鍛えられた優れたクリエーターでないとうまいCMつくれない。広告は時代の空気や気分をチェックしているジャーナリズムとして、今の世相をどう表現するのか?広告の送り手にとっては、あくまで広告は人々の欲望を引き出して、それを通して商品やサービスにつなげる手段ですが、受け手にとってはその商品やサービスが自分たちの日常生活をどう変えてくれるのか?自分たちにとってどんな得があるのか確かめるもの。

 広告を運ぶ乗り物としてメディアを捉えたときにインターネットが急速に進歩してきました。ネットによって広告の形も大きく変わった。巨大化し複雑化し、資本集約し、暴力化した。テレビCMは、番組を見ている視聴者の意思に関係なくまさに暴力的に割り込んでくる。しかし、ネットの広告には暴力性はない。自分から見たい人だけが見に行けば良い。
テレビの広告は我々の意思とは関係なく一方的にメッセージを押しつけてくる量的な暴力と見せ方の暴力の上に成り立ってきた。それに対してネット広告は自分から働きかけないかぎり出会うことがない。これまで広告を支えてきた暴力性をすてて、それでもなお広告が広告として成り立つのかどうか?これが、今のネット時代の広告を考える上での結論ではないか?

*身の丈サイズの広告。
 広告はその時代の人々の欲望の写し絵であって、時代の気分や空気の生きた記録だとするならば、今我々は身の丈に合った広告がほしいな。もう少し今の日本人の身の丈サイズにあった広告があっても良いのではないか?という感じがします。批評家目線で広告を見てみると新たな接し方が浮かんでくるかもしれない。

 今回の講義では懐かしいCMの話を交えながら、広告やジャーナリズムについて考える回となった。広告が実は時代の空気をまといながら、人々の日常生活の一番近くでその時代を批評している事に気付かされました。
 最近は、Webで得る情報の比率が高くなり、テレビや新聞などで広告を目にする機会が経て散る気がします。しかし、今回の講義を受け、広告を通して時代を見るという感覚を持って、広告に接していきたいと改めて考えました。
(齊藤 邦昭)

参考図書
天野祐吉 「天野祐吉のCM天気図 傑作選―経済大国から「別品」の国へ
」2013年 朝日新聞出版