第71回粒々塾講義録

テーマ 現在を考える〜“らしさ”の研究〜


4月の講義は松尾芭蕉の句から始まりました。
「命二つ中に活きたる桜かな」
この句には再会の喜びをあらわしているだけなく、命とは一人で支えるものではなく、親や友人など多くの人に支えられながらいきています。自分の命は自分だけでなく、相手にとってもかけがえのないものであります。命の尊厳を感じる句です。

※この社会には「らしさ」とう名の思い込みに満ち満ちている

広辞苑によると根拠や理由のある推定を表す言葉ですが、「らしさ」という言葉は、多くの名詞とつながり様々な場面で使われています。子供らしさ、親らしさ、男らしさ、女らしさ、社長らしさ、政治家らしさなど、しかし、「らしさ」という言葉を真剣にかんがえたことがあるのだろうか?

例えば、子供らしさ。
ある公園のトイレにランプがありました。「このランプが点灯していたら多目的トイレの中で、困っている人がいるサインです。手をかしてあげて下さい」という張り紙がしてありました。子供らしく素直に考えれば、ランプが点灯しているのを見て、中の人を手助けしてあげようとする。しかし、親は「ランプが点灯しているときは知っている大人の人をよんでくるのだよ」と今では教えるといいます。なぜなら、良くないことを考えている人がランプを点灯させているかもしれないと親は考えているからなのだろう。この話の中にも現代の社会における、子供らしさ、親らしさがそれぞれ含まれている。


※ 男らしさについて

この社会のなかで男性は、男らしさの固定概念の中で生きてきました。
男は泣いてはいけない、弱音を吐いてはいけない、強くなくてはならない、何歳までに結婚して女房と子供養わなくてはいけない、一生懸命仕事して良いパパでなくてはならない男らしさにしばられている男性たちが息苦しく生きている。
このような男らしく生きてくことができない男性たちが抱え込んでしまう問題を男性問題とする。
男性問題とは男の弱さの問題。自分自身の弱さを認めることができない弱さ。

脳性麻痺の医師 熊谷晋一郎氏によると
「人は一人ひとりに弱さがある、弱さをシェアして、つながり、依存できる、そういう社会であってほしい。ところが、男性には弱さをシェアする場がないという問題がある。」といっている。
 現代社会においては、男性が弱さを見せると低く見られてしまうなどの、一面的な見方をされてしまう。働き盛りの男たちは、父親らしさ、男らしさに悩んでいる。自分の弱さを認め、受け入れることができないと、被害者意識が高まり、他人に対して攻撃的になってしまう。そして、被害者感情の爆発。
これは自己否定であり、自己嫌悪ではないのか?

社会から押しつけられる「男らしさ」から抜け出すための、現代の男らしさをかんがえてみると、弱さを抱えて葛藤しながら、自己否定でも、自己嫌悪でもなく、受容でもない状態で、他者とのつながりの中で弱さを肯定できることではないのだろうか。逆説的ではあるが、弱さを認めることは女々しいことではなく、実は男らしいことなのではないだろうか。

男らしさという言葉にしばられることなく、「男は強くなくてはいけない」から「男は弱くてもいい」という発想に切り替えいることも必要ではないだろうか。


与謝野晶子が語った「女らしさ」について

家庭と仕事の両立が難しい中、女性が家事・育児をするのが当然との価値観が未だ残り、長時間労働が難しいため職場では半人前と思いこんではいなかっただろうか。この様な見方について、私たちは女性の側だけの問題だと思っていなかっただろうか?女性らしさの呪縛から男女ともに解放されなくてはいけない。
さらに、未だに女子寮や女性の家賃補助、女性に対する試験の得点加算など、女性に対する様々な支援がおこなわれている。女尊男卑ともいえる。しかし、女性が優遇されるこれらの制度は、逆に女性差別につながっているのではないかとさえ感じてしまいます。これらは、「女らしさ」という固定観念にみんながとらわれているためにそれぞれの人が本来もっている学力、能力、体力を過小に評価してしまっているのではないでしょうか?

この社会には、「らしさ」という名の思い込みがいまなお満ち満ちています。私たちは「男らしさ」や「女らしさ」という固定観念にとらわれることなく、本来の「人間らしさ」を求めていかなくてはならない。

だからこそ、男女平等社会についてもう一度考えるが必要がある

※ 「優生思想」

昨年の相模原で起きた事件をとおして、命の重さをかんがえてみる。

優生思想とは、個人を役に立つ人間と役に立たない人間にわけてしまうような偏った考え方で人間の生命に優劣をつけてしまうこと。これは社会に不満を持つ加害者の思想だけの問題としてしまってよいのだろうか。

全盲と全ろうでありながら東京大学先端技術センターの教授を務める福島智氏によれば、
「今の日本を覆う新自由主義的な価値観と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。生産性や労働能力に基づく人間の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、最終的には、多くの人が巻き込まれていく。役に立つ、役にたたないといった生命を価値的に見ていくみかたは、“自分も含めた”生命的価値を軽視・否定することにつながっていくはずだ。」
と現在の社会に対して警鐘をならしてます。

生命という言葉には、そもそも価値という言葉を結びつけるものではではないのです。すべての人間の生命には「尊厳」があるのです。あなたは何ものにも変えられないものです。あなたの代わりはどこにもいないのです。

尊厳という言葉で、人生をみつめてみると生命はかけがいのないものであるとわかります。しかし、現代の社会はヘイトクライムと呼ばれる犯罪が拡がっています。しかし、この憎悪に対するには「学び」しかない思います。学ぶことで他者、自然、社会、そして、みずからとつながっていけるのです。

“人は一人では生きていけない”。

松尾芭蕉の句から始まり、吉野弘の詩で終わる今回の講義は、「らしさ」という言葉にしばられている自分自身に気付かされ、「生命」について改めて考える講義となりました。

私たちは「学び」を続けなくてはならない。

今月の本
加賀乙彦「不幸な国の幸福論」(集英社新書

(齋藤邦昭記)