第69回粒々塾講義録

「民主主義」について、これまで講義をして頂きましたが、
最後は、「正しさ」について講義して頂きました。
 ここで言う正しさとは、倫理観における「正義」とは違い、一人一人、それぞれが
考える正しさのことを言います。そして、その時代によって、正しさの意味合いが違ってくる。ある意味、多様性があるということを認めることが、正しさかもしれない、という前置きで、今年最後の講義がスタートしました。< PKO 南スーダンに派遣されている自衛隊員のこと >

派遣されていく自衛隊員は、法律に則って戦闘地域に向かい、与えられた任務を全うする。 これは正しいことだ。しかし、“軍事衝突”があって自衛隊員が人を殺してしまうかもしれない。
これは、自衛隊員にとって、正しいことなのだろうか。
行った先で人を殺してしまう。今の法律に則れば、日本の刑法で殺人罪になる。
では、国家としてはどうか。正しさなのか。
マスコミは、国や自衛隊をたたく。
これは、正しいのか。そういった時にマスコミにとっての正しさが問われてくることになる。< こどもに対する正しさ >

もうひとつ例を挙げる。
こどもに質問された時、こどもにもわかるように説明ができるだろうか。
例えば、なぜ沖縄にアメリカ軍の基地が集中しているのか。なぜアメリカ軍は日本を守ってくれるのか。それなのに、なぜ、日本には基地問題に反対する人がいるのだろうか。
こどもにわかるように、「正しく」説明できる大人は、果たしているだろうか。

こんな風に、正しさに対していろんなアプローチができると思う。


< 5年半にあったいくつかの「事象」をめぐって >

我々は、原発がからむ社会から逃れられないと、改めて思う。
原発事故は、今も続いている。10年、20年、30年・・・ずっと続いていく。
放射能という名の ―「軛」くびき―となって、私たちはそれにずっと繋がれている。
そして、進行中の事故の影響のひとつに、新潟・横浜・東京千代田区であったいじめの問題がある。
今、わかっているのは氷山の一角であり、もっと他にもあるはずだ。
いじめは、昔もあった。瀬川塾長の時代は、クラスで腕力が強く、勉強についていけない子が、心の中では疎外感を持っている。こどもは、みんなそれぞれにアイデンティティを持っているから、自分自身の存在を周りに表現したいと思い、「弱いものいじめ」に発展していった。昔は、力の強い者が周囲をいじめ、自分を主張する。
今の時代は、みんなが一人をいじめている。
そして、無関心という身勝手さ。しらんぷり。見て見ぬふり。これは、人間の「業」である。我々だって、もしかしたらいじめをしてきたかもしれない。それは、偏見や差別とともに、「無意識」のうちに行われてきた。
例えば、ハンセン病水俣病、広島の被爆者に対して、その時代の大人が言ってきた言葉。やってきたこと。

沖縄の数々の問題に対しての「無関心」。

こういったことは、いつの時代もやってきている。だから、人間の業だという。

こうしたいじめ、差別そして、そこで交わされる言動。
そこには、この国が内包しているあらゆることが含まれているのではないだろうか。
原発に関わるいじめ、これは国家的いじめであり、これに対して、手の打ちようがない。打ち方がわからない。打とうとしていない。   

経済産業省が打ち出した原発廃炉予算
当初は11兆だったが、それが今や21.5兆円にもなっている。これは、この先30〜40兆にも膨らむはずである。そして、この予算の中には最終処分場のことが含まれていない。40年後までに最終処分場を作りますと宣言して、収束宣言したが、何も収束していない。
ここにも、正しさということを考える材料がある。< あの時の正しさ 今の正しさ >

正しさという言葉を実践する方法として、「義援金」があった。
その多くが日赤に集められ、堀田力配分委員長により、公正に配分するための対策が取られると言っていたが、いつの間にか、ニュースでも取り上げられなくなってしまった。
あのお金はどこにいったのか。
あの時の正しさと、5年9か月経った今の正しさ。

また、当時、郡山市民へ東京電力から、見舞金なるものが送金された。
一人当たり10万円 次の年は、8万円
お金を受け取った人。そんなお金はもらいたくないという人。
その制度自体を知らなかった人
どれが正しいのか。もらった場合、どうやって使うか。自分なりの正しい選択はあったのか。いつも私たちの身の周りには、「正しさ」をめぐり、いろいろな問題が提示されている。

あの見舞い金と引き換えに帰宅困難者自主避難者が生まれたといえなくもない。
疑問に思うことはたくさんある。しかし、そいういう人たちがいるということを承知の上で、考える。そのことについての考えを考える。< 想定外、常識、未経験 >

震災後、いろんな言葉が言われだした。
ものを見る時、人はどうしても自分の立場から見る。人間はそういうものであるから、
悪いことじゃない。
でも、もし暗闇で見えないものがあったら、そこに何があるか、探しているものはどこにあるか、気配で感じるしかない。

 例えば、落盤事故。暗闇の中で出口をみつけるには、自分で考えるしかない。
救助は来ないかもしれない。学校で出口の探し方なんて教わらない。出口をみつけるため、答えを探し出すために、自分で気配を感じるしかない。耳をすます。気配を感じる。
出口を探すために、自分自身が専門家になり自分を頼るしかない。
これは、5年9か月、ずっと、私たちに与えられた問題提起でもある。< 引かれた「分断線」>

あれから、いくつもの分断線が引かれてきた。
再稼働推進VS原発反対という分断線。
福島県を応援してくれる人もいるが、忌避されるという分断線。いじめ問題にも見られるように、未だ嫌われた土地。米、魚、農産物が拒否されているのも事実である。
ある意味、何も変わっていない。そういう分断線は誰が引いたのか。・・・自分たちが引いたのだと考えるべきだ。

自分たちで引いたのだから、自分たちで消すしかない。どういう手法をとるか。
その選択も「正しさ」につながる。
民主主義を考える上で学んできたもの。それは、自分と違った意見があって、
かえって良かったということ。自分と周りとの違いを認め、多様性を受け入れる。そして、
そういう思考の中から、次への新しいステップが生まれるはずである。


1937年のアメリカ コメディアン
ジョージ・カーリン
正しいという言葉は出てこないが、「正しさ」の正体がここに表現されているようだ。


「 ビルは空高くなったが 人の気は短くなり・・・」
ここに、 ジョージ・カーリンの言葉をすべて入れたいと思っていましたが、 
(講義を欠席された方にも、是非、紹介したいからです。)
長くなりますので割愛します。


ずいぶん昔に書かれたものだが、今の時代にもすっかりこのまま通じるものがある。

ヒラリー・クリントンはこんなことを言っていた。
先の大統領選に負けた際の演説。

「あなたたちも、勝つこともあれば、負けることもあるでしょう。負けることは辛い。
でも、決して信じることをやめないでください。正しいことのために戦うことは、価値のあることです。やるべき価値のあることなんです。」

それぞれの正義、正しさ。それは、皆違う。自分が絶対正しいということは凶器である。そこから争いや対立が生まれる。偏見、不寛容の根底にあるのは「無知」である。

安積高校出身 朝河寛一のことば (エール大学進学)
「国のためなら正義に反してもいいという思想は
それに違反してしまう人さえも 非愛国者にしてしまう。
=その時の正しさになじまない人は、非愛国者ということにしてしまう。
知性を持った人でさえ世の中の凶器に満ちたような憎悪を恐れるようになっていた。

参考図書:柳田邦男 「マリコ」(新潮社)
太平洋戦争開戦時のことが描かれている本。この時も、マスコミが真実を伝えないで、安易な道を選んだのではないか。

これまで、民主主義という大きなくくりの話をしてきた。
これをどう捉えるか、とても難しいテーマである。

正しさの反対語は 「悪」なのだろうか? そうではない。
反対語を探すことは、新しい正しさの価値観を生み出すことではないか。

民主主義の中で、少なくとも主権者は私たち自身である。
そのことを考えて、主権者である私たちは、国の将来について
何かあるごとに考えていかなければならない。

そのことを心に留めておいてほしい。

< 今月のおすすめ図書 >

☆「最後の一葉」オー・ヘンリー短編集の中  「賢者の贈り物」
   クリスマスに向けて読んでほしい。短編なので、すぐ読めます。

☆「マリコ」 柳田邦男 (新潮社)
   是非、読んでみて。正史。教科書とはちょっと違う現実の話。
   寺崎英成(日本大使館)とグエン(米国人)との間の子 マリコ 
寺崎は朝河と一緒に 日米開戦をどうしても阻止したかった。日本のためにならないと。
寺崎は戦争回避の願いを込めて、日米の関係を意味する「マリコ」を暗号にした。


今回は、今年最後の塾でした。正しさを考える上で、様々な切り口から「正しさ」を見つめるきっかけを頂きました。答えは一つではないし、すぐに簡単に出るものではない。
だから、考えることをやめてはいけない。正しさとは、と自分に問いかける事自体もまた、「正しさ」であるのでしょう。
ジョージ・カーリンの「心のふるえる瞬間」という言葉。
今年最後の塾、今しかない時間に、出会えてよかったと思える言葉でした。
今、世界では様々な紛争の恐怖に耐えている人々がいます。その人たちにも、一日も早く平穏な日々が訪れますように。愛する家族や大切な人と、平和なかけがえのない時間を共に過ごせますように。違う意味で心ふるえる時が訪れるように。遠くにいて、祈ることしかできませんが、正しさを考えることも、どこかで、遠くの人々に繋がるような気がしています。 

2016年の暮れに祈りをこめて         長井 庸子 記