第68回粒々塾講義録

テーマ「民主主義を考える〜時代とは何か」


「時代とは何か?漠然とした概念ではあるが、一体何を指すのであろう。
年月?その時に生きた人達?或いは戦国時代などの事象であるのか?
時代の正体とは?時代の空気とは?」。

今回の講義は、時代をどう捉えるかという、普段の日常では考えなかったであろう内容だった。

今現在、我々が生きている“今日”はどういう時代なのか?

“時代”の正体、空気を考える一つの例としてむのたけじ氏の話が紹介された。

“よりよい社会と世界を目指すには、あの戦争と、その後の日本の歩みを、絶えず検証し、発信し続けなければならない。という彼の考え。

「報道機関が沈黙した時に戦争は忍び寄る」

これは戦後の暗黙を照らそうと「たいまつ」(週刊新聞)を発刊した彼の精神でもある。

一月一日に大晦日と元旦が重なっている。
終わりから始まり、つまりは、死ぬことは生まれることでもある。

また、「壮年期を充実させないと、実りを持った老人にはなれない。
考えるとは何か、を考えましたか?」。

彼の問いかけ。

そして、こんなことも言っていた。

3.11後の大本営発表(政府や東電)を垂れ流しにしているだけの記者は、ジャーナリストとは呼べない。東電の発表にはどこまでが本当か、分からない部分が多い。
真実から目を背け、体制や風潮に迎合するそのままの体質が、福島原発事故の被害を拡大させる原因の一つにもなった。
組織防衛の為に、政府、東電の発表を何の検証もなく、歪曲した情報報道を流し続けた。今からでも本当の事を言って欲しい。
「実語」「空語」に惑わされている今日、人々は何を信じて良いか分からなくなってしまっている。

時代とは何であろう?

中島みゆきの歌に見る「時代」。

過去や経験、歴史が根底にあるのではないか?

例えば、著名人、有名人、芸能人が亡くなった時、「一つの時代が終わった」という表現がされる。それも時代の捉え方の一つかもしれないが。

そして「今」という時代をどう捉えるか?
戦後71年経つが、戦争を知らない政治家が戦争を語り、政治を司っているような時代。
今の時代は何に焦点を当てて考えれば良いのだろう?

「ことばと国家」の著者、言語学者田中克彦氏の言葉。
・異常気象の時代
少子高齢化の時代
・貧富の格差が増大している時代
・少数の富める者が大多数の貧しき者を支配している時代
・物が市場に溢れ、お金があれば何でも手に入る時代
・便利さの追求が理に適っている社会
・インターネットに支配されている社会
・子供の6人に1人が貧困を言われている社会

子供の貧困については、絶対的貧困(その人達の所得)と相対的貧困(等価可処分所得
に分けられるが、戦後に於いては貧しさが当然だった。貧しかったからこそ助け合ったり、お裾分けが日常化していた。

現在、「子ども食堂」が東京から各県に広がっているが、食事が出来る事だけでなく、何かを学ぶ場としての場ともされている。そこには次の世代に繋げるという発想がある。
「事象」は5年もしたら、語り継ぐ人もいなくなるかも知れない。
語り継ぐ人が居なくなれば、残された人々は取りに行かねばならなくなる。負の遺産にならぬ様に。
その為には常に自発的にならないといけないし、考える事を放棄してはならない。
思考停止とは想像する事を自発的に止めるということである。


今、この日本を覆っている空気とは何だろう。
就職活動などで着る「リクルートスーツ」。同調することで、個々が失われ、埋没しているのではないか?

自分の身を守る為の生きる手段であり、常に空気を読んでいる。でも、時には読んだ空気を自分の息で吹き飛ばさないといけない。小さな旋風を起こさないと。

現在のマスコミの在り方は“同調”に支配されているとも見える。
政治の問題とも絡んでくるのだが、同調なるものが「安全弁」として機能している。今の時代の空気なのかもしれない。
同調は民主主義ではない。民主主義が失われてしまってるのではないだろうか?

豊かな国としての「日本の中の貧困」。

モノや貧困を考えない人達が多くなっていないか?心の貧困になってないだろうか?
昔には存在していた、モノを言う老人も少なくなったと感じる。叱る老人も居なくなった。

佐藤一斎の「老いて学べば、即ち死して朽ちず」の言葉がある様に、老人、年配者がモノを言わなければならない時代なのかもしれない。

10年後の日本の社会、姿を想像出来るだろうか?
想像と想像力は異なるが、想像力とは体験や知識の凝縮であり、その人の力や習熟した体験が含まれている。想像力を、自発的に養っていかなければならない。


橋本 久美江記