第67回粒々塾講義録

「民主主義を考える 〜情報リテラシー〜」

前回に引き続き、情報リテラシーについて皆で思考する。

テレビジャーナリズムとしての情報リテラシーを考えると
まさに「沈黙化」しているのではなかろうか。
本来「権力」対「メディア」という構図の中で、後者はその役割を果たしているのだろうか。

あらゆる情報には意図があり、メディアと権力の絶妙なやり取りがそこではなされる。
「オフレコ」もその一つである。額面通りのそれではなく、権力者側にとって、メディア側に発する「オフレコ」は、時には「書いてくれ」の意味である。
何処か、人の好奇心を煽るようなこの「オフレコ」という言葉。まさに実相を見抜く力を養うことが前提の「情報リテラシー」であろう。

あらゆる情報には発信する側の「意図」があり、受けてはそれを想像する力が必要である。

宮沢賢治
雨ニモマケズ」よりの一節。

ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

塾に何度も登場している、宮沢先生の詩が、私たちに情報リテラシーの原点を問いかける。

平成の一億総白痴化が益々進むのではなかろうか。
「バーチャルと現実」が同調してしまっている昨今、「ポケモンGO」なるものの“一つの存在感”が、私たちに情報リテラシーを問うている気がする。

「やまゆり園」にて起こったあの惨劇事件から排他主義、弱者排除の思想を考えずにはいられない。
かつてナチスドイツのユダヤ人虐殺においてささやかれた思想「優性思想」。

優性思想…劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想をいう。 それゆえ、「優生学」は「民族衛生学」とも呼ばれる。

しかしながら、昨今の思考停止状態に陥る人々が増加する中、実は“健常者”とは障害者なのであって、異常者・障害者は我々ではなかろうかという気になる。
まるでそれは、「大人」と「子供」の感性の違いのように。

「この子らを世の光に」 

糸賀一雄氏の著書(1965年11月刊行)の題名です。
「この子ら」とは知的障害のある子たちのことです。このフレーズは、「この子ら(に)世の光を」と思いがちな我々の感覚を否定し、「この子ら(を)」という表現を用いている。
これらは社会に対する人への観方・価値観への問いかけでもあろう。

一つの結論。
リテラシー能力を涵養し、それを高めなければいけないのはメディア自身だ」。

大量の情報の中で、何が正しくて何が間違っているのか。それを見抜く力としてのメディアリテラシー、“情報”を批判的に読み解く能力。

一、 情報をすぐに鵜呑みにしないこと。
二、 事実と意見や感想を区別して考えること。
三、 他の見方が無いかをさがす。
四、 「隠れているものがないか」をさがす。

“学びによって得た知識や情報をきっかけにして、自分の行動を変えていくことが肝要”

リテラシー能力を「涵養」し、不確実な世にあっても、それらとどう接触して行くかが、民主主義を考えると言う上で大きな要素になっている。

「民主主義」の限界。

戦争とメディア。(リテラシーという概念が無い時代)
「権力」と「メディア」の構図にあって、後者の役割はあくまでも監視機関である。さらに求められているのは報道の自由ではなく、報道の質だ。報道の自由のもと、不確実な、不確定な情報やデマでも、思いのままに世の中に流れていく。私たちが情報リテラシーを「涵養」しなければ“嘘”までもが「自由」とされる。

ズバリ、戦争責任の一端はメディアではないか。萎縮するメディア。世論を誘導できるメディア。使命を放棄したメディア。

現在日本のメディアもまた、大きな分岐点・分水嶺に立っているのではなかろうか。

「ジャーナリズムとは報道されたくないことを報道することだ。それ以外のことは広報に過ぎない。」イギリスの作家ジョージ・オーウエル。

日本の報道の自由度は世界第72位(対象の180ヶ国中)国際NGO「国境なき記者団」はこれを「問題がある」と位置付けている。


最後に、今回の塾に参加させて頂き、あらためて“民主主義と情報リテラシー”というもの考えさせられました。私たちはメディアからの情報を好きなように見て、好きなように聞きます、しかしながら塾で学んだように、それが本質であるか、真実であるかは全く持ってその人のそれにかかってきます。私たちは同じ世界に住み、毎日同じ出来事を見聞きしているようで、実は人それぞれに“別な世界”に生きているのかもしれません。少なくとも自身の人生を豊かにしたいと思うのであれば、「思考」をやめないことに尽きると思いました。

(野地数正 記)