第60回粒々塾講義録

第60回粒々塾のテーマは、東北学その30〜福島を学ぶ・福島に学ぶ〜その2」。

前回の塾で紹介された、言葉と感覚の思想家ロラン・バルトの残した「無知とは知識の欠如ではなく、知識によって飽和されているせいで、未知のものを受け容れることが出来なくなった状態を言う」という言葉を再度振り返り、「無知」とは何かを再度認識することからスタートした。
つまり情報が氾濫する現代では、その多くの情報からもたらされる知識は多くても、本質が何であるかを読み取ることが出来なければ、それは無知だということ。本質の理解なしに正しい方向は見えてこない。「粒々塾に学ぶ塾生たちは無知である勿れ」という塾長のメッセージ。

東日本大震災当時、相馬高校新聞部と交流があった彦根東高校新聞部の高校生が、その活動を通じて導き出した考えが紹介された。
大きな災害が発生した中で、自分たちに何ができるかということを考えた若者たちは、新聞を発行することで、被災地の状況を発信するという新聞部の原点から答えを探そうとした。彼らは実際に福島を訪れ、実態を見て感じ何かを伝えようとした。
しかし、次第にネタも尽きかけていた。ちょうどその頃、被災者で富岡の語り部をされている方に出会う。
その話を聞き考えるなかで、「無関心と無知が自分たちに何ができるかを考えるうえでの最大の妨げ」だということに辿り着く。新聞部という活動を通じて「語り継ぐ責任」があるということを導き出し、行動に変えていったという話が紹介された。

このエピソードから何が見えてくるのだろう。「新聞部の活動とは何か」を考えることで、原点に立ち返って考えようという本質に近づくアプローチ。自分の目で、状況を目の当たりにして得た「無関心と無知」という本質。更には、「語り継ぐことが今の自分たちの責任」という具体的なやるべきことを見つけだしたのだ。

「まだ、高校生である彼らが、一生懸命に悩み考えてアクションを起こしているのに、君たちはそのような視点を持って生活しているか」という塾生に対する塾長の思いが伝わってくる。

次に、昨今大きな議論になっている憲法問題を考えてみるというセッション。
憲法論議をするためのスタートラインは何かという質問が投げかけられる。
塾生は皆、学校でひととおりの憲法の授業は受けて来た。しかし、改めて聞かれると明確な答えができない。日本国の最高法規である「憲法」とはなんぞやを知らずして、この国の行き先を判断できないだろうという塾長からの警告。

今、国会では改憲論者、護憲論者、加憲論者がそれぞれの理論で議論している。
しかし、憲法で保障されていることと実態ではあまりに乖離しているではないかという問いかけ。そこで憲法第99条に着目してみる。そこには、憲法尊重擁護の義務を負っているのは誰かが記されていた。今の議論が、憲法尊重擁護義務を負うとされる国会議員の議論なのか考えてみる。体系的にこの問題を考えた事がなかった私は、目からうろこが落ちた思いだった。

政治の舞台では、政治上都合のよい方向に持っていこうとする勢力とそれに反対する勢力、更には、都合よく票を集めるための方向性を模索している勢力、それぞれが綱引きをしているが、最高法規である日本国憲法の将来を議論するには本質に迫って考えなくてはならないことを学ぶ。

※参考

憲法尊重擁護の義務〕
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


最後に、絵本作家松本春野さん(絵本作家岩崎ちひろさんの孫)がフクシマをテーマにした創作活動を通して得た、心の変化についてエピソードが紹介された。
福島をとりまく多様な問題に触れるにつれて「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」という思いが次第に大きくなる。正しいこと思い参加していた反原発運動にも違和感を覚え、被災者が置かれているさまざまな状況の中に多様な価値観があることに気付く。そこからの作家としての苦悩がエピソードとして紹介された。

今回の60回目の節目の粒々塾では、「無関心・無知」「日本国憲法」を考えてみることや、「善意の支援」が苦悩を抱えることになってしまった絵本作家のエピソードを通じて感じたことは、目先の事しか見えない今の日本人の姿、自分の姿を考えてみる機会を得たこと。

「他人事」ではなく「自分事」として考える習慣を意識しないと知らず知らずのうちに無関心や楽観主義に陥ってしまうことを深く肝に銘じなければならない。「あるべき姿を取り戻さなければならない」という塾長のことばは、豊かな未来への唯一の光に思えてならない。

(望月記)