第52回粒々塾講義録

テーマ 「東北学その20 〜惰性からの脱却〜」

「惰性」とは、「これまで続いてきた習慣や勢い」をいう。今日、国内に山積する大多数の社会問題も、惰性というぬるま湯に浸かっているだけなのかもしれない。

惰性の回転からどのように抜け出すのか?今回の講義は、「惰性からの脱却」がテーマ。

上杉鷹山の言葉でもある「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
惰性の回転を止め、新たな流れをつくり出すアクションはこの名言に凝縮されている。

小栗上野介(こうずのすけ)、名を小栗忠順(ただまさ)という。徳川家旗本小栗忠高の子として江戸の旗本屋敷で生まれた。一時は小栗家の屋敷内で安積艮斉が開いていた私塾「見山楼」にて学ぶ。彼は黒船来航以降、日米交渉に従事した人物であり、日米修好通商条約批准のために井伊直弼に遺米使節・目付(監察)として抜擢された。数々の足跡を歴史に残し、8年間の幕政を支えた幕府の要人である。
小栗上野介の名言「一言で、国を滅ぼす言葉は”どうにかなろう”の一言なり。江戸幕府が滅亡したるは、この一言なり」。徳川幕府300年の長い歴史だが、彼は幕府という枠組みではなく、国家日本の将来を見据えた思考や理念を持っていた。変化を続けない限り、必ず終わりは来ると。

司馬遼太郎は、「明治という国家」という本の中で、小栗の言葉「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命に限りはない」という名言を引用。彼は、日本の近代化に尽くした人ということで、小栗上野介を「明治の父」と呼んでいる。

また、「どうにか出来ないのは能力の限界ではなく、執念の欠如である」という言葉で有名な土光敏夫氏。石川島重工業・石川島播磨重工業社長や東芝社長を務めた後、経団連会長や第二臨調会長までも引き受けた人物。多くの収入を得るも、「メザシの土光さん」としても知られるように、彼は生活費以外のすべての収入は寄付をするという非常に質素な生活をおくった。彼の言葉「個人は質素に、社会は豊かに」にあるとおり、利他的な彼の理念と行動は、まさに日本の世のためという枠組みで生きた人物である。

幕末ニッポン、近代化に寄与した小栗上野介
昭和ニッポン、精神論を実行した土光敏夫

我々は彼らから何を学び、何をすべきなのか。日本国内にある現状を理解し、この国の未来創造のために動く。それは国を形作る国民の義務でもある。

経済効率一辺倒の画一的な価値観に覆われてきた日本。経済大国日本という価値観は、東日本大震災3.11以降も未だ変わることなく存在する。右ならえの風潮が強い日本社会において、個の突出は時に非難を浴び殺がれる。これは大都市だけではなく、地方にも同様に言えることができるであろう。
大きな集合体にいれば間違いないという考え方が充満する昨今。個々の思考・価値観等を持たず周囲にならう流れは、個のカラーを埋没させている。これが「限界ニッポン」の出現を加速させている。


日本創生会議人口問題検討分科会によれば、「2040年までに、1,800の自治体のうち、896の自治体が消滅してしまう」という推計が出ている。20〜30代の女性が減少しゼロに近づくことが、消滅可能都市として定義されるようだ。実際に「消滅」する都市は無いと思うが。

少子高齢化社会の問題は、長々と論議されて来たが、明確な解決策が何もないのが実情である。東京一極集中は、世界的にみてもニッポン特有の現象である。西洋文化に憧れをもち、日本文化に誇りを持たない人々。大都市に憧れを抱き、地方を離れる人。理由は様々。個の欠如や東京一極集中から導き出せる惰性の断片、ぬるま湯につかり過ぎた日本の現状を再認識する必要性がある。

少子化の指標に頻繁に使用される出生率平成23年全国出生率平均値は1.39。地方都市に関しては平均以上をマークするも、大都市東京は1.06と非常に低い数値となっている(出生率ワースト5は東京以外でみると、北海道1.25/宮城1.25/京都1.25/神奈川1.27である)。
増田寛也総務相の論考「地方が消滅する時代がやってくる。人口減少の大波は、まず地方の小規模自治体を襲い、その後、地方全体に急速に広がり、最後は凄まじい勢いで都市部をも飲み込んでいく」。彼はこれを「人口のブラックホール現象」と名付けている。東京への一極集中化は、人だけでなくソノ財をも引き寄せ、飲み込む。しかしながら、結果として地方が消滅していくという事は、大都市をも消滅させることに繋がる。

「食」に関していえば、日本の農業従事者人口は年々減少の一歩を辿り、こちらも高齢化を辿っているのが現状である。エネルギー・農産物などを供給する地方は、大都市にとって非常に重要な役割を担っていることは事実。生かされる側と生かす側、そのどちらかが衰退すれば必然的に片方も同様の事態に陥るのは明白。地方都市に生かされる主要都市の構図を、如何に打開していくのか。流れに身を任せた施策では、根本的な解決には到らない。

「どうにかなろう」という惰性の回転に身をゆだねるか。「どうにかするぞ」という惰性の回転を断ち切る側にまわるか。今、様々な問題に直面し、それらを解決するための大変重要な選択をすべき岐路に立たされている。時間は刻一刻と過ぎ去る中で、テレビのニュースや新聞・雑誌では、様々な社会問題が伝えられる。
しかしながら、それに対する不満も抗議も全ては個々の心の中で“決議”されているのかもしれない。
「どうにかなろう」と。

今、国の借金は1000兆円を超えた。想像できない領域に達したと言っても過言ではない。これによって、どのようなリスクが浮上し、どのような危機に将来わたしたちが陥るのか。それを学び知ることは、すべての国民の義務といってよいだろう。想定外の範疇ではない、すでに想定内なのだ。

最後に、個人的感想を。
過去に日本で行われていた学生運動。そのアクションこそが、惰性からの脱却だったのではないかと感じます。国を想い、何よりも自国に誇りを持ち、本当の意味で立ち直そうとするための行動ではなかったかと。今のままではだめだ、声を出そう。国は国民を映し出す鏡であると言われるように、国の問題には国民一人一人が真剣に向き合わない限り答えは見つかりません。単に公平に意見を集めるのではなく。たくさんの意見がある中で、それをぶつけ合い。最終的によりよい着地点を目指す。
国内の赤字が膨らむ中、国の破綻もゼロではない昨今。これは想定外ではなく、想定内の範疇にいる事を認識せずして、健全な未来は当然掴めない。

先日、相田みつを美術館に足を運んできました。自分自身、なにかに行き詰った時に愛読する詩集。「慣れるな なれるな どんなことにも慣れるな 慣れると感動がなくなるから」という詞があります。私も、大小関わらず、感じて動くことを前提に生きたい。そんな事をふと感じた次第。

                                                                        (菊池亮介記)