第50回粒々塾講義録

テーマ「東北学その18〜食糧供給地としての東北」

前回、前々回の講義では、東北学とつなげながら「民主主義」というテーマで講義を受けた。普段目の前にあって、あまり考えていないことの一つである「民主主義」。当り前のことを考え直すということは、思ったよりも新鮮であり刺激的だった。身近にあることをもう一度考えること、そして、それについて自分意見を言うことが民主主義の基本理念だということをあらためて学んだ。

私たちは良くも悪くも「3.11」から逃れられない。この東北の地にあって、私たちが「3.11」のことを言い続けなくては、「風化」を非難する資格は無い。

これまで2回、学校の先生の言葉が介されたが、今回の講義では子供の側からの言葉が紹介された。

「潮の匂いは」  石巻西高校 片平侑佳(平成25年卒業)
潮の匂いは世界の終わりを連れてきた。僕の故郷はあの日波にさらわれて、今はもうかっての面影をなくしてしまった。引き波とともに僕の中の思い出も、沖のはるか彼方まで持っていかれてしまったようで、もう朧気にすら故郷の様相を思い出すことはできない。

 潮の匂いは友の死を連れてきた。冬の海に身を削がれながら、君は最後に何を思ったのだろう。笑顔の遺影の口元からのぞく八重歯に、夏の日の青い空の下でくだらない話をして笑いあったことを思い出して、どうしようもなく泣きたくなる。もう一度だけ、君に会いたい。くだらない話をして、もう一度だけ笑いあって、サヨナラを、言いたい。

 潮の匂いは少し大人の僕を連れてきた。諦めること、我慢すること、全部まとめて飲み込んで、笑う。
ひきつった笑顔と、疲れて丸まった背中。諦めた。我慢した。“頑張れ”に応えようとして、丸まった背中にそんな気力がないことに気付く。どうしたらいいのかが、わからなかった。

潮の匂いは一人の世界を連れてきた。無責任な言葉、見えない恐怖。否定される僕たちの世界、生きることを否定されているのと同じかもしれない。
誰も助けてはくれないんだと思った。自分のことしか見えない誰かは、響きだけが暖かい言葉で僕たちの心を深く抉る。“絆”といいながら、
見えない恐怖を僕たちだけで処理するように、遠まわしに言う。
“未来”は僕たちには程遠く、“頑張れ”は何よりも重い。
お前は誰とも繋がってなどいない、一人で勝手に生きろと、何処かの誰かが遠まわしに言っている。一人で生きる世界は、あの日の海よりもきっと、ずっと冷たい。

入選した詩。高校生の3.11を語る上で、大人の言葉含めて凝縮されている気がする。
先生の言葉も素晴らしかったが、子供、若者の感性から、学ぶこともたくさんある。

昭和44年の柏屋の冊子「青い窓」で掲載された小学生の詩も紹介された。

雪だるまを作りました
あんまり大きな頭なのでどうたいにあげられません
しょうがないので『○○○○○』にしました。

塾生それぞれが、純粋な気持ちで最後の空欄の言葉を答えた。
答えはみな正解。子供の心になって考えたことで正解なのだ。

人間は年齢とともに、考えが固定化してくるので、柔軟な心を取り戻す作業が必要になってくる。しかし、大人がそれを取り戻す修行は並大抵のものではない。だから、子供の頭の柔軟性、子供に教えられることを子供たちの詩、行動の中から考えることも重要になってくるという話だった。

秋田県、東成瀬小学校の「ふりかえり」の話も興味深かった。

47都道府県の中で学力テスト1位は秋田県。中でも一番成績の良い学校が東成瀬小学校。
東成瀬小学校は、秋田県の山の中にある学校で、その村の80%が山林という生徒にとっても大変な場所にある。全校の生徒数114人。1学年1クラスの学校が学力テストで日本一。秋田県の平均をはるかに上回っている学校なのだ。

何故なのだろうか?
東成瀬小学校では「ふりかえり」という時間を設けている。授業の6分の1は「ふりかえり」。ふりかえりとは授業内容をふり返るのではなく、教科に関わらず、授業を通して気づいたことを発表しあう時間。何がわかったではなく、どのようにしてわかったかを発表する時間だという。

この「ふりかえり」の目的は、授業の内容を徹底させるのではなく、なぜ、そういう答えになったか。それを自分の考えとして伝えることが、学力の向上につながっていくのだという。

毎朝テーマを決めてサイコロスピーチ。サイコロを振って出た目によってその日のお題が決定される。お題によって生徒一人一人が発表する。お題について考える。人の前で発表する。その発表に対して生徒たちが意見を言う、意見を返す。そういうやり取りの中で豊かな思考力と想像力を養っていく。積極的に意見を言い合うと、お互いの考えが深まり、各々が自信をつけていく。という教育方法をおこなっている。

なぜ、そんな教育になったのか?
山間部の閉鎖的な人間関係の中で暮らし、普段から交流のない子どもたちは、以前は他の交流の場で、モノが言えなかったそうである。それをどうやって打破するかを試みた結果が「ふりかえり」の時間、「サイコロスピーチ」という試みになっていった。

発表が出来ない、意見をいわないと先生は授業をやらない。
皆がモノを言うまで授業を中断する。先生は教室から出て行く。子供たちだけでどうするかということを考えさせる。子供たちが皆で話し合って、何故意見が言えなかったのか、言わなかったのか。それを子供たちだけで解決していく。一見、遠回りのように見える試みが、考える力を養い、結果、学力の向上につながっていく。という、考えさせられる話だった。

本題である、東北の農についての話。
安積開拓―。何故、日本最初の国営(公共)事業がこの地で行なわれたのか。
中央政府の力をこの蝦夷の地に見せつけてやろう。という考え、意図もあったのかも知れないが、江戸幕末から明治維新、首都も江戸から東京となり、中央にどんどん人が集まってくる中、当時の日本という国は肥沃な農地を必要としていたのでないだろうか。中央の食糧供給地としての東北があったのでは?そのための開拓・開墾だったのではないだろうか。そんな問いかけ、投げかけが塾長からあった。

前回の講義に出てきた、安藤昌益の話にもつながるが、現代、東北はコメどころと言われている。しかし、もともと東北は肥沃な土地ではなく、コメが多く作られる土地ではなかった。

食糧供給地としての北海道・東北。結果、今の東北地方は日本の穀倉地帯のようになっている。日本のコメ、食料の殆どが、地方と言われる場所で作られている。

日本の穀倉地帯化と同じように、その姿を現代の原子力発電所に置き換えてみれば、東京が必要とする電力を供給してきたということと、どこか社会構造としても同じ構図であり、同じ関係性があると考えられる。

「稲」と言うのは、もともと亜熱帯性気候の植物。寒冷地の東北でコメを作るということは技術的にはとても難しいことであり、東北でコメを作るということは、大変なことだったらしい。歴史の教科書にもあるように、天明天保から始まって、東北には何度も大飢饉があった。寒冷地なので、ある年突然、気象条件によって農作物が出来なくなる。一たび飢饉が起きれば村は全滅する。年の若い女性は身売りさせられる。東北の農業は極めて不安定で、飢饉によって生き死に関するような、深刻な窮乏に襲われる。それでも東北の農家はコメを作り、都市に流通させるという役割を長い間担ってきた。

やませ いなさ ならえ はえ

やませは北東。いなさは南東。ならえは西、はえは南風。風の事だ。

「やませ」が発生すると冷害が起きる。江戸時代には天明天保の大飢饉、明治以降でも明治5年、35年、38年、43年。大正に入っても大正2、大正10年。昭和6年、8年と断続的に飢饉が続いた。日本で最大の飢饉は、昭和8年(1938年)から昭和10年(1935年)に発生した飢饉。日本にとって、この昭和の飢饉は大変な影響を及ぼすこととなった。都市部でさえ大失業、所得減少、都市部の住民が都市で生活が出来ないので、都市を出て農業をやろうとするが、逆に地方に入った人口圧力によって農村経済も疲弊し、農家の家計は窮乏化していく。東北地方や長野県などで欠食児童が続出する。これが世界恐慌の引き金となり、満州事変にもつながる背景となっている。

戊辰戦争以来、東北を卑下し、侮辱した表現の「白河以北一山百文」。
一山百文は山の値段ではなく、農作物も出来ないような土地、値打ちのない土地だという意味。

現代の東北の田園風景を作ったのは、一山百文といわれた汚名返上という粘り強い東北人の不屈の努力と近代における稲作開発技術の向上があったのだ。その結果、出来たのが食糧供給地としての東北。

有名なコシヒカリは、1944年の戦争の真っ最中に食糧増産政策のために改良されて出来た品種。現代、東北が最大の米どころと言われているが、それは最近のことだったのである。
江戸時代までの日本経済は石高制が社会を統制し、コメが貨幣価値を持っていた。当然、年貢米が発生する。東北の地にあってもコメ、コメ、コメだった。ジャガイモやサツマイモなどが作られていたら、天明天保の飢饉などは無かったはずだが、ジャガイモはオランダの作物。江戸幕府は栽培を認めていなかった。それだけコメにこだわってきた日本社会だったのだ。

安藤昌益
「自然真営道」。自然の中に人間の真の営みをさぐる。

「統道真伝」
人の生死は米穀の進退にして、人の生死に非ず。
転定(てんち)の精神、小に凝(かたまり)て米穀となり、米国の精神進み見はれて人と成り、
人老いて米穀を食すること能して死するは、米穀が転定に退くなり。
人、死するに非ず。故に米穀進んで人、生じ、米穀退きて、人、死す。
故に人の生死は米穀の進退なり。米穀、人と成り、人の腹中に米穀食うは、
是れ米穀が小転定なる人の腹中に退く、穀精満ちて子を生ずるは、米穀また人に進むなり。
世界・万国の人倫、世の根は米に始まる。此の故に、人・物の寿(いのち)は稲に来たり、
此れ、是(そ)の人・物の命は米に来たり。是れ此の人・物の世の根は米に来るなれば、
転下惟(ただ)是米穀の主行なり。故に人は米穀を食して糞と為し、穀は人糞を食して実を倍す。
穀と人と食を互いして常なり。
*転定―てんち。転地や宇宙のこと

解釈の難しい「統道真伝」を、塾長がわかりやすく訳してくれた。

人間の生死は米の衰退運動であって人の生死ではない。
天地の精神が小さく凝縮して米となって、米の精神が発現して人となる。
人が老いると米が食えなくなって死ぬのは、米がてんちに退くのであって人が死ぬのではない。
つまり米が進むことによって人が生まれ、米が退くことによって人が死ぬ。
このように人の生死とは米の衰退運動なのだ。
米が人となって人がそれを食って腹の中に納めるのは米が小てんちである人の腹の中に退くことである。
穀物の精が満ちて子供が生まれることは米がまた人に進むからに他ならない。
世界中の人間社会。つまり、人の世の根は、米によってはじまり、人や万物の根は米によってなりたっているのだから天下はひとえに米の働きによるもの
人は米を食って糞を出し、穀物は人糞を養分としてその身を増やす。このように穀物と人間とは互いに食ったり食われたりしながら、存在し続けている。

安藤昌益は何を言いたいのか。
しつこく、食のことばかり言っているようだが、人間が生きるためには食べることが最も重要なことである。このことは核心を突いている。人間にとって、生き物にとって、食うということは大事なことであり、人間の名誉や貧富に関わりなく、すべての人間は食物を摂取しなければ生きてはいけない。
当り前のことだが、それを繰り返し、昌益は言っている。

塾長は、安藤昌益の事を理解するには、想像力が必要だと言う。

今、我々の多くは、その日の食事に困ることのない、近代社会に暮らしている。
毎日、自分の好きなだけ、おいしいご飯が食べられる満たされた社会に生きている。
だから、もし今、安藤昌益が現代に生きていたら、コメの思想は生まれてきたのだろうか?
昌益が釈迦や聖人を批判していたころ、飢饉が起き、飢饉の深刻さが増して、沢山の餓死者が出ていた。町医者であった昌益は、たぶんその光景を目の当たりにしていたのだろう。
捨て子もあり、強盗もあったはず。昌益が生きていた江戸時代には、士農工商という厳しい身分制度があり、人間にとってもっとも大事な食べ物を作っている農民の身分は低かった。人間にとって一番大事なことは食べること。その延長として昌益が闘っていたのが農業をしないで威張っている人たちの批判。米を食べている人間は皆同じで、稲を耕している人が最も尊いはずなのに、聖人たちは偉そうなことばかり言っている。
「それは違うのではないか。」ということを昌益は言いたかったのではなかろうか。
士農工商制度の中、昌益が町医者をやっていた津軽藩では「百姓の衣類は布、木綿たるべし。」
百姓は、布と木綿しか着てはいけない。百姓は、「雑穀を用い、米を食すべからず。」
現代の感覚から言えば、米を作った人が米を食ってはいけないというのは、おかしな話。
しかし、石高制の時代の米は年貢として殿様に捧げるものでしかなかった。
米を作る農民たちが米を食べてはいけない。庶民農民が木綿の着物を着ることしか許されない。
食があるからこそ、それぞれの生命を全うすることが出来る。深刻な飢饉が起きても、政治が人を保護することは出来ず、農民から多くの餓死者や夜逃げ者が出ても、藩の支配者である聖人や武士は安住している。そんな社会に対しての昌益は激しい怒りをぶつけていたのではないだろうか。
東北では、3.11といった深刻な自然災害があった。その後の政治の失政に翻弄されている。むき出しのまま晒された「生」はどうやって生きる姿を取り戻すのだろうか。この問いかけは昌益の思想を通して、今を生きている私たちにも突き付けられている問題なのだと。

日本の人口は減る。福島の人口も減っている。今後、農業、農地を維持することはとても難しい。
今回の講義では、柔軟な子供、若者の感性から学び、若者の感性と安藤昌益を想像することによって、東北の未来と農業を、東北の人間が語ること、東北からのメッセージとして、それらを発信する重要性と必要性を講義録作成の中で、あらためて感じました。
塾長、記念すべき第50回の講義、大変ありがとうございました。

(宮川記)