第44回粒々塾講義録

テーマ「東北学その13〜明治維新と東北〜」

歴史の出来事は点、線、面で捉えなければならない。点を結びつけて“線”とし、やがて面としての“事実”が浮かび上がってくる。−という話からはじまった東北学その13。

歴史の通過点をどう評価するか?によって歴史への見方が変わってくる。認識もわかれてくる。「後世の歴史の評価に耐えられるように」と言われる。歴史を理解するためには、常に「なんでなんで?」と問い詰めて考えていくことが必要なのではないだろうか。

そんな考えを前提にしてー。

明治維新というと何を思い浮かぶ?という塾長の問いに「廃藩置県」「武士の終わり」「文明開化」などの声があがる。
明治維新とは、一言でいうと「近代国家に生まれ変わったこと」。この近代国家に生まれ変わったという一大革命を俯瞰的に見ることで、現代の日本を見ることにもつながってくるし現代の日本の状況と比較して見ることでこれから先を予測することもできるのではないか?

今日、明治維新が話題にあがることが多いのは“近代日本の草創期”に行きつかないと今の日本は見えてこないことの現れなのかもしれない。

ただ、明治維新という歴史がどこか“美化”されたものになってはいないだろうか。
果たして戊辰戦争とは意図したものなのか?偶発的におきたものなのか?そんなことも含めて。

明治維新以前にも、“日本”という「国」は在った。江戸幕府があり全国に威令が行き届いたように見えるけれども、全国にはそれぞれいろんな“藩”があった。
その諸藩を統一し中央集権国家を築いたのが明治維新であった。統一した結果、生まれたのが近代的な国家、つまり中央集権国家である。

「国家」という概念は、明治維新によって復活したもの、出来上がったものではないか。

明治維新を読み解くひとつのキーワードに“尊皇攘夷”がある。

会津や東北にたいして強い関心をもっていた司馬遼太郎は『この国のかたち』という本の中で、「明治維新とは革命である。世界の革命史の中でも特異なものである」と書いている。そして、「明治維新とは近代国家を成立させるというただひとつの命題のもとに行われた革命だが、この唯一の命題は社会のあらゆる層に犠牲を強いた革命である」と読み解いている。

維新以前、江戸時代江戸幕府の時に日本の中では戦争らしい戦争はなかった。泰平の世を貪っていた。なぜ幕末になって勤皇の志士という人々が現れ幕府を倒そうとしたのか?それは、260年の泰平の世に人々が飽きていたのかもしれない。司馬遼太郎の著書の「世に棲む日々」読み替えると“世に倦む日々”・・・幕末のころというのは、世に倦んだ世界だったのかもしれない。戦争はなかった、だからこそ、平和というものに倦んでいたのかもしれない。高杉晋作が言っていた「面白きこともなき世を面白く」の面白き=革命と考えると明治維新というものの別の形が見えてくる気がする。

明治維新がおきる背景の一旦に、江戸幕府は日本人の心の底にある天皇、皇室というものをないがしろにしていたという要素、幕府から諸藩に対しての様々な負担をかけたことによる疲弊、吉田松陰松下村塾)の影響力をもって学問を身につけたある程度の人々の存在があったとも言える。
江戸幕府=徳川家がこの国を260年間支配してきた−御三家と言われる紀州尾張、水戸。特に、明治維新で鍵となるのは水戸の徳川である。(松平容保も水戸の出)
尊皇攘夷」を最初に使った人は西郷隆盛とも親交があった水戸学の藤田東湖である。

意外に感じるが、我々は、学校で明治維新を習ってきた際に「尊皇攘夷」は官軍のほう、つまり革命を起こした方のものだと思ってきた。
実は、幕府側も革命を起こした明治政府側も両者とも「尊皇攘夷」ということを唱えていた。藤田東湖のいう「尊皇攘夷」は、朝廷と公家が一緒になってやっていきましょうという考える公武合体。これは、水戸の藩校弘道館の教えの弘道官記にある天皇も神様も敬わなくてはならいとう教えによるものである。寛政4年(1792年)根室に外国船が、文政8年(1820年)には水戸にも外国の軍艦が来ていた。脅威を感じる人々は対外的な危機感を募らせ、日本の意思を統一していく必要があるという考えにいきつく。そしてそれは天皇をたてまつる、「尊皇」に行きつく。

日本人はそもそも土地土地の神を信仰していた。神に対し祭祀を行いとりしきる天皇を敬いそして、政治を移譲されていた将軍家も敬う。これが公武合体の思想である。天皇を表舞台に出してくる下地にもなるものでもあった。
外国人を打ち払えという発想の攘夷は外国船を打ち払えというスローガン。しかし、外国船を見た人々は打ち払うのは不可能であると悟っていた。しかしあえて、攘夷を主張として打ち出すことで、各藩の連携を強め幕藩体制の強化を図っていった。

明治維新の約10年前、浦賀にペリーが来て開国をせまる中で結んだ日米通商修好条約いわゆる不平等条約であった。TPP交渉の話題の時に、鎖国だ開国だということが引き合いに出されるが、維新前の空気とも似ているかもしれない。

日米修好条約=不平等条約で、国内情勢は怪しくなってくる。幕府に反感を持つも人々が増えていく。その人たちも尊皇攘夷という言葉を持ち出す。天皇をたてて打ち払うべき外国を倒すつまりは不平等な条約を結んだ幕府を打ち倒すことは、外国勢力を打ち倒すことと同じ意味であった。水戸藩を中心とした幕府派も、幕府を倒そうとする人たちも尊皇攘夷といった。尊皇攘夷は変革革命のための名目にすぎなかったのだ。

倒幕派のいわゆる勤王の志士といわれる若者たちは、この国を変えなくてはならないと考え権威の象徴である幕府を倒すことにこそ意義があった。しかし、倒すことを目的としていたためその後どういう国づくりをしようということを考えていなかった。政治理念がなかった。

これも、平成の時代の政治の構造に似ているかもしれない。政局が目的となっている。
戦後、高度経済成長を成し遂げた日本もここに来て倦んできているのかもしれない。

慶応4年官軍が江戸城に迫ってくる中、幕府軍と倒幕軍の戦争がはじまる予想があったが、勝海舟西郷隆盛の会談があり無血開城、王政復古となった。

司馬遼太郎によれば、会津戦争いわゆる戊辰戦争というのは、「血を見なかった革命」の代わりにあった“ガス抜き”だったのかもしれない。

会津藩松平容保がなぜ賊軍の汚名をきせられてまで、幕府をまもろうとしたのか?孝明天皇守護職でもあったものが。それは会津藩保科正之が作った会津家訓15か条によるものであった。会津藩は、将軍を守らなくてはならないという二代将軍秀忠の遺言。家訓を忠実に守ったのが会津藩

明治維新と現代の日本を、様々な角度からみることで今の日本の形が見えてくる。勝者が作る歴史を、敗者側つまり東北側から見たときまた違ったモノがみえてくるのかもしれない。それが冒頭に書いた「評価」のことにもつながってくる。

今回の講義の概要は、長くなったが以上のようなことだったと思う。
次回に持ち越された話もある。水戸藩の話を聞けてよかったとも思った。

<やまお記>