第39回粒々塾講義録

テーマ「東北学その8〜方言、もう一つの視点〜」

恩返しではなく『恩送り』…送ることは繋げる、広げること…

この『恩送り』という言葉は、吉田五月さんが講義録の掲示板にて紹介してくれた言葉だ。
今回の講義のスタートにあたり、塾長はこの『恩送り』という言葉を知らず、だからとても勉強になった。塾でした話(講義)が塾生にとって、考えるきっかけとなり、聴いたことを咀嚼し、次の考えに加えていくことが塾の醍醐味ではないか。そして『恩送り』とは『利他』(自分のことよりも他人の利益や幸せを願う)の考えにもつながる言葉であると言っていた。
塾長のブログに『受けた恩は石に刻め、かけた情けは水に流せ』という言葉が書かれていたが、
これも『恩送り』に通じる考えではないかと私は思う。

風に立つライオン』…自分に出来る事を力にしていく…

この曲を作曲したさだまさし氏は、東京など都市部のコンサートで、必ず観客にこう呼びかけるという。「僕のこの曲が良いと思ったなら、CDを購入して下さい」と。このCDの収益は彼の収益ではなく、被災地支援のために充てているという。これもひとつの『恩送り』ではないか。
震災後、さだまさし氏は被災地での音楽活動をためらったという。しかし歌には人を大きく動かす力はないけれど、歌を聴いている人の表情が緩むことがあった。だから歌には人の心を少し動かす力はあるのかも知れない、そんな希望を感じとったという。

発想の転換』…共に教え、学び合う…

これも講義録の掲示板にて野地さんが書かれていた意見“「君の言葉は誰にもワカンナイ」の井上陽水は「君の言葉をわかりたい」の裏返し”からの気付き。野地君の発想、あれはすごい。掲示板を通じ、みんなそれぞれ考えを持っていることに気付かされる。

『東北人の特質』…優しい、辛抱強い、無口…

これら三つの特質は、東北人の特質としてよく挙げられ、それが良いことのように思われることがある。しかしそれらは東北人の本質とはやや異なり、意図的に作り上げられたレッテルでもあった。それは吉原遊郭の主が『女衒』(ぜげん:女性を遊郭などに売ることを生業にする人のこと)に対して言い出したことと言われている。『優しい、辛抱強い、無口』という特質が、遊女という職業に必要な条件であったからである。
貧しい地域(東北)は、娘を身売りに出さねばならないこと。そうせざるを得ない社会があったことは、東北の民族性、つまり支配される歴史の繰り返しではないか。

江戸には薩長の人が住む屋敷がたくさんあったのだが、もともと江戸に住む人は彼らを嫌い、よそ者扱いをした。だからそこで働く下男下女には藩という拠り所を失った東北からの旧・士族らが充てられたという。これは『出稼ぎ』の始まりとも言える。
しかしここで『東北弁は、下男下女の使う卑しい言葉』というレッテルが貼られてしまう。『言葉という誇り』までも奪われてしまう。これは東北人にとって大きな傷跡ではないか。

私は以前、このような話を聞いたことがある。東北の貧しい地域から売られてきた女性たちは、方言で話すことを禁じられ、代わりに遊女独特の廓言葉を仕込まれたという。それは方言によって身元が明らかにならないようにということではあったのだが、方言を失うことは、ふるさとへの未練を断ち切り、アイデンティティを失わせることだと痛感する。



『東北人に残した大きな傷跡』…魂が傷つくということ…

会津若松市大町にある東明寺というお寺には、西軍墓地というお墓がある。ここには薩摩、長州、大垣、肥州から来た将兵の墓150基が建てられている。これは会津人が敵味方関係なく、死者の霊を丁重に葬った会津人(東北人)の『和』の心の表れではないか。
しかし同じく戦士した会津兵は遺体の埋葬が許されなかった。やがて阿弥陀寺に合同の墓を設け埋葬することになったのだが、ここでも墓碑には三文字しか文字を刻むことが許されず『戦士墓』とだけ刻まれてしまう。

私は偶然にも、8月6日に高知からの友人を連れ、この西軍墓地を訪れていた。入り口にある門には各藩の家紋が飾られ、墓石には誰それの墓と墓碑銘が丁寧に刻んであった。会津人の心意気を感じさせるものではあったが、会津を守るために落命した人々とその家族の無念さを思うとやり切れない気持ちになった。『傷跡』とはこういうことなのだと思う。目にも見えず、血も流れる事はないけれど、いつになってもそのことを思うと涙が流れるような痛み。この痛みは、震災後に私たちが負った傷の痛みと同じではないかと思う。



『中央権力が侵攻してくるのは、いつでも中央に大きな社会変動が起こっている時だった』

歴史を辿ると、中央権力の侵攻というのは律令制度(奈良時代律令に基づいて行われた官僚による中央集権的な直接統治のこと)に始まり、奈良から京都に都を移そうとしていた平安時代の草創期、阿弓流為がやられ、また豊臣秀吉による全国統一の総仕上げ。青森を治めていた武将・九条政実を滅ぼすことにつながっていく。
もちろん、戊辰戦争もそうだ。明治、近代の幕開け、維新においても中央の侵攻によって『戦争』という形で、戦火に見舞われていく。

その歴史において、東北人は何故攻めていかなかったのか、という疑問が起きるのだが、我慢強い性格であることが、戦を回避するのではなく、命を賭して戦うことへ向かわせたのではないかと
思われる。何よりも東北人の根底には『人と人とは分かりあえるはず』という『和』の心、切ないまでの願望がある。相手の怒りが分かってしまう、だから仕方がないと受け容れてしまう。自分よりも他人を思いやる気質や魂は、厳しい東北の風土が育んだものである。
そして、この気質が良い悪いということではなく、東北に住む人が自分たちの気質を卑下することなく、肯定的にとらえ、見つめ直していくことが、明日の日本を決めていくのではなかろうか。

私は八重の桜を見ているのだが、八重は『会津はわるぐねえ!』と怒るシーンが度々あった。それは『福島はわるぐねえ!』という震災後の私たちの気持ちを代弁してくれたと思っている。憂さ晴らしのように攻められた会津、反原発に利用されている福島、ここでも重なるものがある。


『被災地を支えている力の一つ 方言 』…方言は根っこである…

方言とは本来、その地方独特の言葉であり、地域と地域を隔てる言葉でもあった。いわばグループ共通の言語であり、その言葉でなければ表現出来ないニュアンスが存在する。だから自分たちの『根っこ』であり、ふるさとそのものなのだ。
震災時、津波の被害に見舞われた歌津町では、学者や大学生によって『歌津語大辞典』が編まれた。人が戻ることが出来ない地域からは、方言も失われてしまう。歌津を無くしたくないという想い、共通の言葉で話せるという癒しが方言にはあるから、きちんと残しておきたかったのだという。
NHKの連続テレビドラマ『あまちゃん』で使われる方言『じぇじぇじぇ』はもはや全国区、共通語化している。これは脚本家の『方言の表現は豊かで面白い』という感性によるものではないかと言われている。
一方、福島では『福の島プロジェクト』という活動の中で、福島の方言が効果的に使われている。
贈答品には『せっかくどうもない』と書かれ、お弁当には『はらくっち』。もしかしたら東北弁が標準語(共通語)になる日が来るかもしれないと思ってしまう。

『方言を救う、方言で救う』…方言による地域再興…

ふるさとというものが消えていく寂しさは方言が失われていくことと同じ。方言を復活させる、復権させることが『復興』の原点になるのではないか。言葉による地域再興ということに大きな可能性を感じる。
方言だと本心を語ることが出来るし元気が湧いてくる。震災後、被災地に派遣された医師や看護婦らは積極的に地元の方言を覚えた。そのことで仲間としてのコミュニケーションが図れると同時に、体の部位や症状などの微妙なニュアンスを的確に理解し、治療につなげる事が出来たのだ。

ちなみに国立国語研究所では被災地の方言用例集を発行している。『東北方言オノマトペ用例集』というタイトルで、2011年9月に試作版が、その後、地元の人の意見を取り入れ2012年3月に完成版が発行されている。(http://www.ninjal.ac.jp/pages/onomatopoeia.html
方言は言葉以上のものを伝える力を持っている。そして方言が無くなることは国や文化を失うことと同じなのである。がんばろうではなく、まげねぞ、という言葉に力を感じるように。

『被災地、それは逆にチャンス』…未来へのチャレンジ…

方言の話、言葉の話から「発想の転換」という視点に行きついた。私たちはいつまでも被災者、被害者ではいられない。終わりの始まりを言っていても仕方がないのだ。これからは『はじまりの始まり』を始めよう。本当の豊かさを見つめ直し、未来へのチャレンジをしていこう。東北の様々なもの、ことを復権させるためにも。



歴史が大の苦手な私のために、『言葉・方言』という切り口で講義を進めて下さった塾長に
感謝申し上げます。今回はレジュメが手元にあるようなまとめ方を意識してみました。
良かれと思ったのですが、文字数が多くなってしまい読むのが大変になってしまいました…。

戦争で失われるもの、略奪されるものの一つに『言葉』があります。
言葉は単なる意思表示の手段ではなく、歴史や文化であり、感性やプライドでもある。
だからこそ武器にもなり得るのですが…。でも私たち粒々塾の塾生は言葉を平和を築き上げる
道具として、魂や文化を伝えるものとして使っていける、そう信じています。(橋本陽子)