第37回粒々塾講義録

テーマ 東北学その6「東北に関わる先人達の魂について。」

敬天愛人』、西郷隆盛が好んでよく使った言葉。よくあちこちで揮毫されてもいる。
『天を敬い、人を愛す』、彼の自己修養と信仰的な天命への自覚という考え方が含まれているというのだ。

西郷南洲(隆盛)の没後、彼を敬愛していた旧庄内藩中老であった
菅 実秀(すげ さねひで)が旗を振り、直接藩士達が彼から学んだ教訓などをまとめた本『南州翁遺訓』にある。

塾の会場にあるこの言葉から今回の講義は始まった。

庄内藩戊辰戦争後、「寛大」な処分を受ける。その下地は西郷の指示にあるという。そのことを知った旧庄内藩の人々は、西郷を大変慕うようになり、明治になると、多くの藩士は西郷を訪ね、教えを請うようになった。

そして、没後、「西郷の教えを朽ちさせてはならない、そして彼の教えをひろく後世に伝えねばならない」という強い想いが形となり『南洲翁遺訓』が完成した。

記録媒体の無い時代。聞き書き、覚書でまとめられた教え。

敬天愛人をもうちょっと。
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
(現代訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」
西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より引用)

人は天からそれぞれ「天命」を与えられ、それに従い生きている。それゆえ、人はまず天を敬うことを目的とすべきである。天は人々を平等にやさしく愛してくれる(仁愛)、だからこそ天命を全うするのであれば、自らも他の人に対して同じように「慈愛」を持ち接することが必要である。ということになる。

天命・・・。

幕末、反幕府の立場をとる人達は激しく“弾圧”された。月照(げっしょう)とい京都清水寺成就院の住職。薩摩藩に庇護されていたが藩は放逐しようとする。それに異を唱えた西郷は、月照と共に入水自殺を図る。結果、月照だけが絶命し、西郷は奇跡的に助かる。生き残った、死にきれなかった西郷は悩み苦しみ、後を追おうとまでした。絶望の淵を彷徨った西郷は、ようやく一つの考え方を見出す。

「こうして自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命がある。だからこそ、こうして天によって命を助けられたのだ」

これが、敬天愛人への思想の原点である。そんな「逸話」が紹介された。

「自分の使命が終われば、天は自分の命を奪い去るであろう、天が自分を生かしてくれる内は、自分にはまだやらなければならないことがあるということだ」ということなのだ。

東日本大震災後の我々は様々な人間模様を目の当たりにした、多くの死者をだした現実にリンクしてくるような気がする。

小我をもって天命を限定するのではなく、大我に生き天命を成す。

西郷の生き方は、倭の民に似通うところがある。 もしかしたら、蝦夷の東北・隼人の薩摩は、倭の民として根っこは一緒だったのではないだろうか。

「情」の人間である西郷隆盛は、温情派。一方で、「利」の人間である大久保利通は、官僚派。
同郷の彼等は、友人であったが、明治政府では、相容れない存在であった。

安積開拓に貢献した大久保利通を祀った神社が、郡山市(牛庭)にある。安積開拓を支えたのは開成社。その語源。『開成』とは、四書五経易経の繁辞(けいじ)「夫れ易は物を開き務めを成し天下の道を冒(おも)ふ」(開物成務)からきている。人智を開発し、仕事を成し遂げることを意味する。万物を開発して事業を成功させることだと。そんな地元の“歴史”も知った。

以前講義内で紹介した、ビスマルクの言葉「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。その言葉を引き会いに出し、塾長は言う。

「今、この日本を考えてみたときに、これは違うと思えるようになった。」と、そして続ける。「賢者は歴史からも経験からも学ぶことが出来る人。愚者は歴史からも経験からも学ぶことが出来ない人。」ではないかと。

名言も社会と共に、変わりうるもの、そして不変ではない。
その時代背景にあるコトバは、別の時代でも当てはまるとは限らない。
常に疑問を持つ事は、何事にも必要であるのだろう。

だから僕はここで言いたい。「少なくとも我々は、限られた範囲で、ある意味独断と偏見に満ちた東北学を学び、大震災を経験、しそこから多くを学んだ。この数年の歴史と経験の中から学んだ人たち。つまりは、粒々塾の塾生達は賢者なんだよ。」という塾長の言。そして続けられた「歴史と経験から学ばざる政治家のなんと多いことか」という見方。

ドイツ連邦共和国の第6代大統領であるヴァイゼッカーの言葉「過去に目を閉ざす者は未来に対しても盲目になる」がある。今の日本には、このコトバが当てはまるのかもしれない。

安倍首相のいう「侵略の定義はない!」。しかしながら、実際にその定義は存在する。 1974年の国連総会にて、侵略の定義に関する決議がなされている。

「侵略とは国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する、または国連憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」
「一国の軍隊による他国の領域に対する侵入もしくは攻撃、その結果もたらされる他国の全部、もしくは一部の併合」

ソレに対して、マスコミは無反応であった。歴史にも経験にも学ばない政治家やマスコミは、まさしく空虚な世の中を作り上げている元凶である。

そして「東北学」に続く。

東京の消費電力は、福島でつくられる。なぜか?
その理由は、戊辰戦争にさかのぼる。奥羽越列藩同盟が賊軍になって、それからあと150年間、中央政府により有形無形の差別を受けてきた。

大正7年に総理大臣に就任した原敬は、岩手県出身である。彼は、唯一爵位を拒否し、「平民宰相」と呼ばれた。そして、彼の号は、「一山」或は「逸山」である。しかし、かれは一切の「爵位」を拒否した。
※「白河以北一山百文白河の関所より北の大地は、一山で百文にしかならない荒地ばかり)」、戊辰戦争以来、新政府軍が東北地方を卑下して用いた侮辱的な表現である。

東海道新幹線開通が1964年、東北新幹線全通2010年、ココから読み取れるように、東北は半世紀遅れている。福島は原発を誘致した、なぜなら地元に産業がなかったからである。それは、福島県人の自己努力が足りないからではない。戊辰戦争以来、150年間の制裁の結果、東北にはチャンスが与えられなかった。青森県にある六ヶ所村は、斗南藩の領地である。会津藩戊辰戦争で敗北したあと、貧しい下北半島の不毛の荒野に追いやられた。農作物も育たない、厳しい土地で、そこで生きろ!そのためには、汚れ物を引き受けるしかない、それしか生きる道がなかった。今、そこには核燃料の再処理工場が存在する。

政治的な意図と権力をもって、どんな要求も避けられないような境遇をつくりだし、断ることができない貧しい地域が作り出されて行った。そのような土地では、嫌なことを全部押し付けられてきた歴史がある。それらを150年間、政治家や官僚は、“無意識”のうちに行って来た。

元陸軍大将である柴五郎の少年時代が書かれた「ある明治人の記録」という本が紹介された。

戊辰戦争鶴ヶ城会津若松城)が落城した時は、わずか10歳であった柴五郎が、生き残った父親や兄達と斗南藩に行き、餓死寸前の日々をおくっていた。縁があり、上京し、そこで下男として扱われるも、学費の必要ない陸軍幼年学校に入り士官学校に入るまでの歴史が書かれている。

勝者ではなく、敗者の歴史が書かれた、だからこそ、この本には価値がある。「血涙の辞」ではじまるこの本は、敗戦により辿った会津藩士の苦難と心情がつづられている。斗南藩の領地に移住した後、寒く不毛の大地で餓死寸前の中、五郎の父親は彼を「薩長の下郎武士どもに笑われるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ!」と叱責したという。

坂東捕虜収容所という所があった。第一次世界大戦後、ドイツ軍捕虜を収容した場所。そして、所長は会津出身の松江豊寿。この収容所で結成されたオーケストラは、日本で初めてベートーヴェン交響曲第9番を演奏した。楽器を集め、ドイツ人の捕虜に練習させ、演奏させたとある。

柴五郎と松江豊寿の共通点とは、「会津の武士道」である。
ドイツ人捕虜に対しても人格を尊重し、名誉を重んじる姿勢を貫き、寛大な態度で接した。自分が“敗者”であった経験と歴史から学び行動に移している。

2.26事件や5.15事件の陸軍青年将校の秀才といわれた軍人達には、なぜか東北出身者が多い。1930年代から、明治政府に抑圧されていた歴史に対する反発精神を持った人間が台頭してきた。

「東北地方のルサンチマン
ルサンチマンとは、デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールにより確立された哲学上の概念であり、フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が利用され、「主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう」と記されている。

彼ら青年将校の中に、「故郷では、親族が飢えている、身内が娼婦に売られている」、そういう事情を抱えている人間がたくさんいたのだ。
だからこそ、都市のブルジョワ人が政治をやりたい放題やっていることが許せなかった、そしてソコにはルサンチマン的感情が渦巻いていた。

青年将校が求めていたものとは、社会資源の再分配であった。独占資源を貧しい地域に還元せよ、社会主義的観念がそこにはあった。軍国主義を排出してしまった東北という位置づけをされ、戦後社会の中で無意識のうちに、差別された一因にもなっているのではなかろうか。

だからこそ、東北の根は深い。講義はその一言でこの日は結ばれた。


上手く纏まりきらなかった感がありますが、個人的な感想を。

人間誰しも、自らが苦難を経験しない限りは、その気持ちを真の意味で理解することは不可能です。苦難の歴史を見返そうとし、それを繰り返せば、自らもまたその同じ歴史を繰り返すことになる。

一人一人が相手を気遣う「情」を持ち、己の「利」を制御することで、「ワ」の心に近くづくことができる、そんな気がします。

                                   (菊池亮介記)