第36回粒々塾講義録

テーマ 東北学その5 ・・・それは「和」から始まった

今回の講義では東北の始まりについてふれられた。

日本は大和の国である。その大和の「和」とは・・
まず、「和」という字。読みは、わ・やわらぐ・なごむ・かず・・・
意味としては、おだやか、のどか、ゆるやか、あたたか、互いに気が合う、仲良くする、争わないなど様々ある。熟語を見てみると、平和・和合・和睦・和解・不和・調和・・・
さらに、和食・和服・和風と書くと日本を表す字になる。

大和朝廷の時代から、東北・北海道は「蝦夷」といわれた。
「蝦」とは、海老のことである。海老のように体が曲がっているということだろうか。
「夷」とは、中華思想でいうところの未開な蛮族の総称である。

すなわち、蝦夷とは体の曲がった野蛮な敵ということである。その語源はいずれにしても、
軽蔑した呼び方である。蝦夷は古くは愛瀰詩と書き、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。毛人はアイヌ人の毛が濃いことからそうなったのだろう。江戸時代頃から、蝦夷アイヌになっていったと考えられる。

いずれにしても、大和王朝・大和朝廷の時代から東北人は蛮族扱いだったのだ。
この頃から、東北の歴史は日本の正史(教科書に出てくるような歴史)から抹消されている。東北の人々は千数百年も前から「和」の精神をもって生きてきたのに、中央の一方的な論理に蹂躙され続けてきたのである。

「大和」こう書いて、ヤマトと読めない人はいないだろう。では、なぜヤマトと読むようになったのか。それは、出雲の国譲りという物語。

その昔、出雲に「ワ」という民族が暮らしていた。漢字が無い時代。同じような意味の「和」をあてた。そこへ邪馬台国が侵攻し、組み入れようとした。だが、当時「和」と交流のあった中国はこれを侵略だと思い、併合を認めなかった。そこでヤマト族は出雲王朝の「和」から正式に国を譲ってもらったとして、邪馬台国と和という国が合体して「大きな和の国、大和」となったと中国に宣言し、認めてもらった。だが、読み方にはこだわり、「だいわ」ではなく「やまと(=邪馬台)」としたのだろう。中国としても国家名が大和であれば、それまであった和の国が新たに再統一されたものと認めざるをえなかったのだ。
しかし、「和」の人々の多くは国を追われてしまい、その後東北に定住した人々は蝦夷と呼ばれ、九州に定住した人々は隼人と呼ばれるようになった。

蝦夷の末裔である東北人は元をたどれば「和」民族ということになる。だから、我々東北人は「和」の精神を根底に持っているのだ。和の人々は戦を好まない。そのためにいつの時代も攻め込まれ、中央のいいなりになり、提供させられる立場になってしまうのではないだろうか。鉄・金・溶鋼技術・兵士・・・労働力、そして電力。。。いつの時代もそれらの供給地なのである。搾取なのである。

3・11後の被災地の人たちの姿、在り様は全国に感動を呼び。外国からも称賛された。
多分、外国ならありうる暴動も起きない。お互いが助け合い、礼や徳をもって事に当たった。「和」の精神が生きていたからだ。和は、輪に通じ、環に通じる。

平成23年6月に平泉が世界文化遺産に登録されたのは有名である。だが実は、平成20年の登録会議では決議を延期しているのだ。藤原清衡が読み上げた中尊寺落慶供養願文「一音の及ぶところ千界を知らず。抜苦与楽、あまねく皆平等なり。官軍夷虜の死事、古来幾多なり・・・」を添付して申請いるのだが、その意味を理解しきれず、平和を旨とするユネスコは、戦の歴史のある平泉を認めなかった。しかし、3.11が起こった。震災に耐え忍び、“平和”を旨としていたような東北の人たちの姿に心を打たれ、文化遺産に登録された。「和」の精神の現れを見てとったから。

聖徳太子の十七条憲法に、「和を以て貴しと為す」とある。これは、論語の「礼を用うるに和を以て為す。」からきている。十七条憲法はいつの時にか“無くなってしまった”が、この心は忘れずに残ってきた。

講義の要旨は以上。
ボクは思った。
我々東北人は、和の精神で生きてきた。だからこそ、中央にいいように利用されようが、大地を汚されようが、和の精神を強くもち続け、それを後世に伝えていくためにも、学び続ける必要があるのだと。
生きた東北学だったと思う。

                                 (高橋大輔記)