第35回粒々塾講義録

今回のテーマ『東北学その4〜自由民権運動

本題に入る前にある言葉が紹介された。今年3月11日の追悼式、遺族代表の女子中学生の言葉。その要約。

『私は、津波の中を必死にもがき薄れる意識の中
 木材につかまり黒い海の上に出て
 辺りが静まりかえった中、母親を何度も呼び続けました。
 ようやく近くの建物まで泳ぎ、今こうしてこの壇上に立っています。

 私はあの日より少しだけ強くなりました。
 母への想いと残された友人と家族や友人
 多くの人々の支えがあったからです。
 親孝行も出来ませんでしたが、自分らしく生きることが恩返しだと思っています。

 そして、人の役に立つことが使命と考え
 自然災害の発生した国々で、支援活動が出来るような人材になり
 行動していきます。』

この言葉を、新聞3社が取り上げていたが、3社とも抜粋するところが違っていた。
a社は、過去を語った、津波の中必死にもがき・・・
b社は、現在を述べた、私はあの日より少しだけ強くなりました・・・
c社は、未来を語る、 そして、人の役に立つことが使命と考え・・・

何処を切り取って伝えるかによって、読者の受ける印象や想いが違ってくる。その例としてこの言葉が紹介された。それは前回の講義の最後に塾長が言った言葉につながる。

「やはりこの国は、道を間違えてきたのだと思う。間違えた中には私もいた。皆には間違えた道を正しい道に戻してもらいたい…」という言葉。
前回の講義で塾長が引用したのは“風に立つライオン”の歌詞。
「やはり僕たちの国は残念だけれど何か大切な処で道を間違えたようですね」の処だけ抜粋して塾生に紹介した。だからその部分が一人歩きしたようでということで歌詞全文が配られた。

さだまさし風に立つライオン
    突然の手紙には驚いたけど嬉しかった
    何より君が僕を怨んでいなかったということが
    これから此処で過ごす僕の毎日の大切な
    よりどころになります ありがとう ありがとう

    ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更
    千鳥ヶ渕で昔君と見た夜桜が恋しくて
    故郷(ふるさと)ではなく東京の桜が恋しいということが
    自分でもおかしい位です おかしい位です

    三年の間あちらこちらを廻り
    その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました

    ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが
    一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
    キリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット
    何より僕の患者たちの 瞳の美しさ

    この偉大な自然の中で病と向かい合えば
    神様について ヒトについて 考えるものですね
    やはり僕たちの国は残念だけれど何か
    大切な処で道を間違えたようですね

    診療所に集まる人々は病気だけれど
    少なくとも心は僕より健康なのですよ
    僕はやはり来てよかったと思っています
    辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです

    あなたや日本を捨てた訳ではなく
    僕は「現在(いま)」を生きることに思い上がりたくないのです

アフリカで医療活動に従事する日本人青年医師が日本に残してきた恋人からの結婚報告の手紙に対して書いた返事を歌にしたもの。将来を約束された立場の医師の男が、それを捨てて貧困の地で考えたことを書いている。

この歌詞の中で「生きることに思い上がりたくないのです」とあるが、それが「なかった」という過去形で無く、現在形で書かれているのは、「生きていることを真剣に考えないことや何でも便利に手に入れられる」といった、この歌が作られた時代を象徴する価値観への“警鐘”ではないかということ。

そういう解釈もしてくれた。

私も他人の一部分だけを聞いて、話したこともない人に対して誤解したり、毛嫌いしたことがあった。でも直接会って話してみると、思っていた人と全然違う事が多かった。
もっと冷静にそして自分自身の目や耳で確かめて、一部分ではなく大きな視野で、判断し行動していくことの大事さを、この話を聞いて確認した次第である。


本題の「自由民権運動」。自分で調べたことも補記しながら書いてみる。

従来の通説では1874年(明治7年)の板垣退助ら8人による民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による藩閥政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた運動として全国に広がった。のちに自由党(党首・板垣退助)・立憲改進党(党首・大隈重信)が結成され、組織的な運動を展開したが、福島事件(喜多方事件)・秩父事件などが鎮圧されるなかで衰退していった。その後1886年大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、翌1887年(明治20年)にはさらに、欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件、建白運動が起り民権運動は激しさを増した。これに対し政府が保安条例の制定や改進党大隈の外相入閣を行うことで運動は沈静化し、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890年(明治23年)に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれ収束を向かえた運動であるといわれている。

その中で、我々福島人が考えなければならない人物が3人いた。

一人目は「板垣退助」である。
板垣退助は土佐生まれで戊辰戦争時は迅衛隊総督として土佐藩兵を率い、甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新撰組を倒した。東北戦争では、三春藩無血開城させ二本松藩仙台藩会津藩を攻略した。
しかしながら、官軍の将であるのにもかかわらず、維新後賊軍となった会津の心情を考えて名誉回復に努めるなど、徹底した公正な価値観の持主であった。
その後西郷隆盛大隈重信木戸孝允と共に参与に就任し、征韓論も主張したが
岩倉具視ら穏健派に閣議決定を反故にされ西郷隆盛たちと共に下野し土佐から自由民権運動を唱え始めた人物である。
1881年明治14年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。
全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた1882年(明治15年)4月、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した。その際、板垣は襲われた後に起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。

二人目は「苅宿仲衛」(浪江町出身)である。
苅宿仲衛は教師をやっていたが自由党福島部に参加し、板垣退助に呼ばれて自由民権の地高知へ演説をしに行ったこともあった。
三度の逮捕(喜多方事件・加波山事件・大阪事件)のあと県会議員になりその後三期務めた。
浪江や三春を行き来しながら演説会を開いたりもした。彼の演説草稿。

「東北の人々は一山百文などと綽名をつけて嘲弄されている。しかし、天が人間を生ずるにあたって東西の区別をたてるであろうか、西の人も人間であり、東の人も同じ人間だ。この梅を見よ。関西の梅も西洋の梅も同じ梅だ。ただ、気候風土が違うだけで、花が開く時期が遅かったり早かったりするだけだ。そして、梅の木が花を咲かせ実を結ぶのは、この根元に栄養を施しているからだ。我々も努力して知識を磨き自治の精神、自由の権利をのばし国家を安泰にしよう。」

福島事件で苅宿仲衛は自宅で逮捕された。押しかけた警官を玄関で待たせ有名な書を残す。
「自由や自由や 我汝と死せり」

三人目は「河野広中」(三春出身)である。
河野広中三春藩士であったが、明治政府へ帰順するため板垣退助と会見した。
明治維新後は、磐前県の副戸長に任命されるが、そのころ中村正直の訳したJ.S.ミルの「自由之理」を読み、自由民権運動を始めた。
自由党幹部として中央政界の傍ら福島県会議員、県会議長として県議会においても指導的立場にあった。しかし福島県三島通庸の暴政に対して福島事件が起きたときに内乱陰謀の容疑で検挙されて7年の刑を宣告された。
その後明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙にて初当選をし、以後大正9年(1920年)の14回衆議院議員総選挙まで連続当選した。明治36年(1903年)には第11代衆議院議長に選ばれた。
その河野広中の演説草稿。
「一家は一村の始めにして、一村は一国の基ならば、奮って権を分かち、之を治め、元気を養成するは、理を以て然るべきものなり」。地方分権を訴えたものである。

今も避難先で生活する苅宿仲衛の子孫が言っているという。
「俺の自由民権はこれだったんだな。たまたま相手が原発だった。それを国を挙げてやって、やることを見てると手抜きが多い、いい加減なことをやっている、危険だから止めてくれ、ここを直してくれ、というのが自由民権じゃないかと思う。」

板垣退助は中央にいながら、自由民権運動を行った。
苅宿仲衛は地元に残り自由民権運動を行った。
河野広中は地元より中央に入り自由民権運動を行い、福島民友新聞を創刊した人でもある。


講義を聞きながらこう思った。

皆がどの選択をするのかは自由である。
また国家権力に対しても自由に発言できる。
今はそういう意味での自由は保障されている。

国と東電が決めて行っている原発政策。
今日も汚染水漏れのニュースをやっている。
私たちがこのあと生活する場所。
家族が住むところ。仲間が住むところ。
その仲間の住む国を考え行動すること。
それが小さい民主主義の始まりで、大きな国を正す原動力になるのではないか。
その小さな集まりの集合体が国でなければならないと。

この粒々塾がその始まりである小さな集まりであってくれたらと思う。


                                  上野記