第29回粒々塾講義録

第29回粒々塾 
今回のテーマは「昭和史(に)学ぶ」です。
あえて、昭和史そのものを勉強する「昭和史(を)学ぶ」ではなく、
昭和史から「今」の日本を学ぶ(考える)ことが今回のテーマです。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。
「愚者は己の経験に学び、賢者は他人の経験に学ぶ」。
 〜鉄血の宰相 オットー・フォン・ビスマルク

今回昭和史(に)学ぶことは、「知識を蓄えること」ではなく、
「考える」材料とすること。(塾長)

私たちは「昭和」と聞いて一体何を連想するのか? 
戦後、カラーテレビ、高度成長期、オールゥエイズ三丁目の夕日
これらは全て昭和の断片である。

今回は「昭和」を戦争と天皇という断面から捉え、同時に今を考える。

昭和とは1926(昭和元年).12.25〜1989.1.7までを指します。
明治。の年号は易経の「聖人南下して天下を聴き、明に向かいて治む」。
が由来である。
大正。  〃  易経の「大いに亨(とお)りて、以て正しきは天の道なり」。
昭和。  〃  書経の「百姓(ひやくせい)昭明にして、萬邦協和す」。
平成。  〃  史記の「内、平らかに外、成れり」。

※ちなみに平成という元号昭和天皇が逝去される前から決定されており、
そこに安岡正篤先生もまた関わっていた。安岡先生の好んで使った言葉に下記がある。
 「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」
 →先人の成したことを追うのではなく、先人の志した事を自分の志とするの意。

※余談の余談
松下電器は何を作っている会社ですかと尋ねられたら、人を作っているところだと
答え、しかる後に、電器製品も作っておりますと答えて頂きたい』これは幸之助の
有名な言葉である。起業のミッションが「人づくり」であるとはなんとも
素晴らしいと思う。

太平洋戦争(1941.12.8〜1945.8.15)

日本国として戦争を展開する際には、開戦時、終戦時それぞれに天皇による
詔書(しょうしょ)がある。
※「開戦の詔書」・「終戦詔書」でネットそれぞれ検索をすれば参考文献が
出て参ります。

「開戦の詔書
天佑(てんゆう)を保有し萬世一系の皇祚(こうそ)を踐(ふ)たる
大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝(なんじ)有衆に示す。
・・・以下省略。

ポイントはこの一文

 「豈(あに)朕が志ならむや。」
 
この文で昭和天皇が太平洋戦争突入を望んでいなかったことが伺える。
アメリカの兵力を考えれば無謀極まりない戦争であった。実際、ご存知のように
太平洋戦争で300万人の尊い命が失われた。「3.11」を経験したせいか、
300万人という数に背筋がゾッとしたのは私だけではないはず。

終戦の一年程前から敗戦の可能性は濃厚で、昭和天皇は戦争の終了を
望んでいたにも関わらず、その意向は叶わなかった。
明治政府の時代から続く、官僚支配、軍部支配において天皇は過去の「在り方」
から様変わりし、こと戦争の実質的な最終決定権は持ちあわせていなかった。

最高戦争指導会議において、官僚である軍人が決めた結論は「戦争続行」 
海軍行政、陸軍行政は各々自分の立場(権益)でしかものを言わない人の
集まりであり、当時の総理大臣 鈴木貫太郎もその一人でまさに
「国民不在」といったところである。

さてこの構図どこかで耳に、そして目にしたことはなかろうか、そうである。
これが現在の日本国の姿に他ならない。「3.11」を経て我々は震災の主人公として
永田町の体たらくを目の当たりにしてきた。まさに歴史は繰り返すのである。

終戦詔書」・・・いわゆる玉音放送にて発表された内容である。
朕深く世界の大勢と帝國の現状に鑑み非常の措置を以って時局を収拾セム
欲し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民に告ぐ。・・・・朕は・・・以下省略。

終戦詔書ポツダム宣言受託することを国民に伝える文章であり、
同時に敗戦を伝えた。ポイントはこの下記の文章

惟ふに、今後帝國の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。
爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は
①時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て萬世の為に
太平を開かんと欲す。朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、
常に爾臣民と共に在り。

②若し夫れ、情の激する所濫に事端を滋(しげ)くし、或は、
同胞排擠(はいせい)互に時局を亂り、為に大道を誤り、信義を世界に
失うが如きは、朕最も之を戒む

①の文章は安岡正篤先生も事前に目を通し、昭和天皇のお気持ちを察しつつ、
 「時運の趨く所」では解釈しだいでは、「時の流れに身をまかせ・・・運が
悪かった」と国民が受け取りかね無いよって「義命の存するところ」・・・
あらゆる意味で正義のある所、つまり正義の為に戦争をやめるという意の文章へ
変えることを提言した。

「義」について
「義」は羊と我の合字です。羊は古代いけにえとして神に献上した習慣から
吉祥だとか善などの意味が含まれています。ですから、善い、正しい、
と解されています。
 「事宜を知り、恥を知り、為すまじきをなさぬは義」
 「義は人の大本なり」(准南子 人間訓←漢時代の書物)
 義は無条件で正しいとおもうことに我を捧げることです。
それは、人間のあらゆることの大本であり、根本であると定義されています。

話を戻します。安岡先生の提言も虚しく、またも政府が「国民には難しい」
との理由で「時運の・・・」という元の文章に戻してしまった。ここでもまた、
歴史的価値観や脈略を無視したご都合主義の「日本政府」が災いしたと
いえるのかもしれない。またこのことが後日、「天皇の戦争責任論」に転化して
いった経緯があります。

「3.11」以降初めて天皇陛下が国民に向かった「勅語」を皆さんは
覚えておられるだろうか。本来ならばテレビ局全社が一斉に天皇陛下
勅語」を放送すべきだったと私は考えますが、そんなことは今の日本では
行われるはずもなく、またほぼ全てのテレビ局が「天皇陛下からのメッセージ」
と報道していましたが、本当は「勅語」であり「メッセージ」ではないと思います。

さて、また話を戻します。
②を訳すと・・・「今後、感情にまかせてむやみに騒ぎをおこしたり、
自国民同士で争いあったりすれば、国の将来をそこない、世界の信用を失ってしまう
だろう。そのようなことは決してしてはならない。」ということになる。
この天皇陛下のお言葉が敗戦後の日本で、他国に見るような血で血を洗うような
粛清やクーデターなど、大きな混乱へと発展することは免れた大きな要因となる。

先ほど歴史は繰り返すと記述したが、何も悪しき習慣だけが繰り返すのではない、
まさに「3・11」後に、天皇皇后両陛下が真っ先に被災地を慰問したことは、
国民の心をどれだけ癒し同時に勇気づけてくれたことだろうか。
天皇家に脈々と受け継がれる「IDENTITY」はまさに被災地にとって一番の安寧を
もたらした。同時に海外からも賞賛された震災後の日本人の思い、振る舞いに
「日本人の精神」は今も継承されていることを実感する。
この現れがまさに受け継がれてきた「昭和史の一つの断面である」。

今回は「昭和史」というテーマで「考える」材料を頂きました、昭和生まれの
私としてはつい最近の出来事という歴史認識ですが、「戦争」というワードが
介入してきた途端にその性質が一変します、それは私自身の勉強不足が大半を
しめておりますが、同時に平和ボケが原因です。日本人が「国体」や「IDENTITY」
を考える時は現代ではサッカー日本代表の試合を観戦する時だけになってしまった
ような気がします。まぁそれでもその機会がないよりはましですが、もう少し
「日本を大事に」考えたいものです。またこうして何気なく過ごす日々が
「平成史」を創っていることを再認識するとても良い機会となりました。
毎度のことながら、この「時」と「場」を創作頂いている「塾長」と
粒々塾の「塾志」の皆様に心より感謝申し上げます。

                                                                   野地 数正記