第77回粒々塾講義録
テーマ「現代にメディアを問う〜ジャーナリズムの向こう側〜」
前回に引き続きメディア論の続編です。
現代史の中でも、かつてないほどにジャーナリズムと言うものが問われ、試されている時代。
タイトルにて「ジャーナリズムの“向こう側”」と表記しているように、
ジャーナリズムを真正面から論じるのも良いが、少し視点を変え(斜から見て)て論じてみたい。
私たちはいまジャーナリズムに何を求め、どう位置づけるのか。
昨今の安倍政権のメディア敵視や批判に対するメディアの姿勢をみても、メディアの脆弱さが露呈されているように思う。そもそも各種メディアはもろもろ課題を背負っている。テレビは放送法で縛られ、民放はスポンサーにしばられるという脆さを持っている。
またネット上ではSNS等のメディアが自由な空間の名の元に情報が錯綜している。
我々は今、メディアと称するものの中で、何をどう受け止めて、何が本当なのか見極めるという
「リテラシー」をさらに深く求められている。
そのリテラシーを磨く我々の頭脳は著しく弱ってきてはいまいか。
昨日正しいと思ったことが、今日はそうでないということが実際おきている。
ジャーナリズムと、どう接し、どう理解していくか、どう取捨選択していくのか
今またメディアリテラシーを再度考える時にある。
メディアの問題とは、それを受ける私たちの問題でもある。
「何の為に何を報じるのか、それを考えるのがジャーナリズムの精神」
今ほどあらためて痛感した時代はない。
例)芸能界の不倫報道はあそこまで放送する価値が本当にあるのか。
昨今のニュースを賑わす「公文書」の改ざん、隠ぺいが何を物語っているのか。
今後日本の歴史の中で森友・加計にまつわる隠ぺい・改ざん問題は公文書になんの“影響”も与えないかもしれない。しかし、それで素通りして良いものかどうか。日本史を学ぶ上で、後世に混乱をきたす危惧がある。知らず知らずのうちに誤った歴史観を植えつけてしまう恐れがある。
国民は日本の本当の歴史を知る権利がある。
南京大虐殺、日本憲法の問題など、正史(公文書)がないがゆえに、“歴史”が勝手につくられたかのような思いを持つ。
声を強く上げた人の言葉がまかり通ったりする。
だからこそジャーナリズムの役割は非常に大きいのである。
さぁ再度言葉にする、
今また、メディアリテラシーを考える時にあると。
一口で言えばそれは「我々がメディアが発信する事をどうとらえるか」だ、しかしもう少し丁寧に考えてみたい。
・メディアが伝えていることへの洞察。〜メディアと読者〜
・メディアが伝えた社会事象への思索〜読者とメディアの向こう側〜
・メディアが取材対象とどう接しているか〜メディアと取材対象〜
メディアはあくまでも「伝えてくれた道具」それを、どう考察するかが大切なのだ、
だから「メディアの向こう側」なのだ。
取材者とは。
強者の側にいる記者はいかに弱者の側の信頼を得られるかが大切なのであって、
「誠実な自己認識」をもつ必要がある。
昨今、記者自らが取材をしていないという「ジャーナリズムの浅さ」が垣間見えることがしばしば。
それはジャーナリズムとは言わない。
私たちは3.11で体験してきているはずだ。
16万人の被災者の物語をすべてメディアが報じることができるはずもなく・・・しかしながら
「絵になる記事」ばかりが先行する。
被災者にとって取材者とは、その記事が自分たちの側にたった記事なのかという視点がとても大切になってくる。取材者の姿勢に「誠実な対応」がともなってこないと、真実に近づけないおかしな記事になってしまう。
3.11の取材者たちは、その土地に溶け込まなければ書けないし、時には書いてはいけないこともある。洞察も非常に大切になってくる、通りすがりの記者では書けない。
しかしながら、今のメディアには、そうしたジャーナリズム精神がが大きく欠けているのではないか。
自分たちが強者の側に居て、弱者の気持ちに寄り添う立場にいること理解しているのか。
今のメディア、これまでのメディア、これからのメディア
辞書にあるジャーナリズムとは。
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。と書かれている。
「ペンは剣より強し」…学校で良く習うこの一行だが、それ以上の考察もない。
しかしながら実際は、英国の作家、エドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇『リシュリューあるいは謀略』が出典であり、前文がある。
まことに偉大な人間の統治(為政者)のもとでは、ペンは剣よりも強し。
本来、これで一文であるが、文末だけを習っている現実が私たちにはあり
この前半の文章が重要であって、それがなければ解釈が全く変わってくる。
つまりは、これらを日本のメディア論におきかえるなら、マスコミの脆弱性を論ずる場合
「偉大な政府」の存在前提が必要ということになる。
新聞記者は読者をどれくらい意識して書いているのか。
社内を意識して書いてはいないだろうか。
テレビも見ている側をどれくらい意識して報道しているか。
それがメディアの“向こう側”つまり創造力へも繋がってくる。
以前も紹介したが
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報道することだ。
それ以外のものは広報にすぎない」〜ジョージ・オーウエル〜
世界を変える主体性はジャーナリストにあるのではなく、抵抗する市民にある。
ジャーナリズムはそれを伝えるに過ぎない。〜アミラ・ハス〜
この二つの言葉を塾では「ジャーナリズムを考える時の一つの視点」として置きたいと思う。
ジャーナリズムの精神を語るうえで、我々に語り掛けてくる言葉として
下記の言葉を紹介する。
ちなみに、福島県下では各学校の校長先生が式典で生徒に何を話して、何を呼び掛けたなど
記事になることはない。これも一つの“ジャーナリズムの姿”である。
*自由の森学園高等学校 卒業式 新井達也校長の言葉
2016年度
私はずっと「 生命( いのち )の重さ 」について考え続けていました。
昨年の7月に起こった相模原の事件、何の罪もない無抵抗の障害者の方々19名が犠牲になり、また多くの方々が深い傷を負い、そしてまた、私たちの社会に大きな衝撃を与えました。
この事件の根底には様々な考え方が複雑に絡み合っていると言われています。
その一つとして「 優生思想 」があげられています。
「 価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」
といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける思想です。
また、この事件は「 ヘイトクライム 」( 憎悪犯罪 )の特質も持っていると言われています。
ヘイトクライムとは、人種・民族・宗教や障害などの特定の属性を持つ個人や集団に対する偏見や差別にもとづく
「 憎悪 」によって引き起こされる暴力等の犯罪行為を指す言葉です。
この事件の問題を「 常軌を逸した加害者の問題だ 」として、
軽々に判断し押し込めてしまってはいけないように私は感じています。
全盲と全ろうの重複障害を持つ 福島 智( さとし )さん( 東京大学先端科学技術研究センター教授 )は次のように書いています。
「 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、
今の日本を覆う『 新自由主義的な人間観 』と無縁ではないだろう。
労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。
そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、
最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。 」
「 役に立つ/立たない 」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、
いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくのだと福島さんは述べています。
人間の価値、生命の価値、生きる価値、そもそも人間や生命という言葉に「 価値 」という言葉をつなげるべきではない、私はそう思っています。
人間には、そして生命には「 尊厳 」があるのです。
尊厳とは「 どんなものによっても代えることができないもの・存在 」と言うことができるでしょう。
あなたは何ものにも代えられないのです。あなたの代わりはどこにもいないのです。
人間をそして生命をも、取り替えることが可能なものとして「 価値的 」に見てしまう現代社会において、「 価値 」ではなく「 尊厳 」という言葉で自分をそして自分の人生を見つめていくことが大切だと私は思っています。
当然その視線は、自分以外の他者やその人生をも見つめることにもなるでしょう。
そしてそれは「 どのような社会を目指していくのか 」ということにもつながっていくと私は思っています。
今、社会には、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「 憎悪 」に対するものは「 学び 」だと私は思っています。
学ぶということは本来、さまざまなことをつなげていく・結びつけていくことだと思います。
学ぶことによって、自然とつながり、社会とつながり、芸術とつながり、他者とつながり、そして、自分とつながる、
そんな学びをみなさんにはこれからも続けていってほしいと願っています。
最後に、ある詩をみなさんと共有したいと思います。
吉野弘さんの「 生命( いのち )は 」という詩です。
『 生命 ( いのち ) は 』 作:吉野 弘
生命 ( いのち )は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で 虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命 ( いのち )は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和
しかし 互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず 知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
ジャーナリズムを考えるうえで、取材者側にも、我々にもこの「メッセージ」を、思想を大切にしてもらいたい。
2017年度
「生き方としての進路」、進学や就職にとどまらず、その先にある「どう生きていくのか」ということを考えていくことを大切にしたい、そのため「生き方としての進路」について話をします。
最近「君たちはどう生きるか」という80年前に書かれた作品が原作となった漫画が、ベストセラーになっています。原作者は、雑誌「世界」の初代編集長の吉野源三郎さん。15歳の「コペル君」というあだ名の少年が叔父さんとの対話を通じて、貧困やいじめ、暴力という社会に横たわる大きな問題と向き合いながら成長する物語です。
この作品が書かれたのは1937年。その前年には2.26事件が起こり、軍国主義が台頭し、言論が統制され、1937年夏に盧溝橋事件が勃発し日中戦争が全面化、そしてアジア太平洋戦争へとつながっていく、そんな時代を背景とした作品です。
そんな時代と現代との共通点を指摘する人もいます。
「同調圧力のような、ちょっとでも政府の方針に違反すると、売国奴とか非国民とか、そういうことを言われるようになってきた重苦しい雰囲気。今なにか政府を批判すると、それだけで反日とレッテルをはられてしまう。ネットですぐ炎上したり、なんとなく若者も空気を読む。まわりを見て忖度(そんたく)をして、という形で息苦しい思い。当時と、共通したようなものがあるのかなと思う。」と。
原作者の吉野さんは1931年に治安維持法違反で検挙され、1年半も投獄されながらも、この本を子どもたちに届けようとしたのでした。
文芸評論家の斎藤美奈子さんも「コペル君が生きた30年代と現代の空気に通じるものがあるのかもしれない。」と書いています。そのうえで「見落とされがちですが、コペル君は、先の大戦での学徒出陣で命を落としていく世代なのです。」と続けています。
1937年に15歳ということは、学徒出陣のはじまった1943年に21歳。コペル君は、まさに第1回学徒兵として戦場に向かうことになったのでしょう。
人間とは何か?社会とは何か?どう生きるべきか?悩み考え続けた多くのコペル君たちは20歳そこそこで戦場へとかり出され、生きることを断念しなければならなかったのです。
若者たちが生きることを断念せざるを得ないような状況、つまり戦争をくり返してはならない。そうして日本の「戦後」はスタートしたはずです。
「平和に生きること」「自由に生きること」が揺れている今だからこそ、私たちは何を学び、考え、どう生きていけばいいのか、一人ひとりが問われているのでしょう。
「君たちはどう生きるか」と似たタイトルの本があります。
「いかに生き、いかに学ぶか」昭和を生きた数学者遠山啓さんの本です。
人間とは、生きるとは、愛とは、戦争とは、働くとはどういうことなのか。
その中で、遠山さんは「観の教育」の大切さについて書いています。
「僕のいう観というのは1人ひとりが自分で苦労してきずきあげていくものなのだ。1人ひとりがそれまでに自分の体験したこと、身につけた技術、学んだ知識を総動員して人間とは、世界とは、生命とは何か、あるいは人間は、とくにこの自分はどう生きていったらいいかを考える。そうしてえられた人生観・世界観・社会観などをぼくは観と言っている。
これまで観を持つ人間は政治家や学者などごく少数のエリートと呼ばれる種類の人たちだけでいいという人もあった。それは間違いだと思う。日本人のすべてが、みな自分自身で創りだした人生観・世界観・社会観・政治観…などの観を持つようになってほしいのだ。」
一部の政治家や学者、マスコミの言葉を鵜呑みにするのではなく、自分で考えて判断していくことの大切さを、「自分自身の観を築くことだ」と遠山さんは言っています。
これは、「君たちはどう生きるか」で吉野さんが提起している「僕達は自分で自分を決めるちからを持っている」ということとつながっているのだと思います。
「生き方」は誰も教えることなどできません。
早く、効率よく、なるべく楽に あたかも近道を探すように生きるのではなく、自分にとっていい方法とは何かを考えて模索して選択していくことを大切にしてほしいと私は思っています。
限られた時間内で効率よく正解を出していくという「テスト学力」と「生きる」ということはイコールではありません。
世の中の常識や社会の風潮に流されるのではなく、自分の学んできたことをベースとした「観」に基づいて自分自身を生きるということを大切にしていってほしい。そして、そのような一人ひとりが尊重される社会を形成する一人であってほしい。私はそう願っています。
最後に遠山啓さんの言葉をみなさんに贈ります。
「ほんとうに強い精神は、固体よりも液体に似ている。どのような微細な隙間にもしみ通ることのできる柔軟さを、それは保っている。液体はどのように変形し流動しつつも、体積の総和は不変であるが、精神の強さというものも、そのような種類の強さではなかろうか。」。
上記の校長先生の言葉も立派なジャーナリズムだと思う。
突き詰めていくとジャーナリズムとはそれぞれの人に内包されている感覚だ。
それをどうやって熟成させ、自分の立ち位置を確立するかだ。
あなた方自身がジャーナリズムであり、ジャーナリストだ。
つまり例えるなら、粒々塾生がそれである。
今回の推薦図書
「君たちはどう生きるか」著者 吉野源三郎 文庫本
所感 塾長が仰った「あなた方自信がジャーナリズムである。」という言葉はやはり重いと
感じます。この数日もメディアでは官僚のハラスメントや芸能人のワイセツ行為が延々と
流されています。「もっと他に放送することがあるだろうに…」と思う反面、
このニュースを知りたいという潜在的欲求が国民に、そして私に少なからずあるからこそ、これらのニュースが大量に流れるのであろう、そう捉えることもできます。
情報過多の昨今、流れるニュースの何が真実かわかったものではない。しかもツイッターもFBも「垂れ流し」である。一国の大統領が平気で株価を左右するような垂れ流しの暴言を吐く世の中になっているのが現実です。
そのような中で、塾長がおっしゃるように、現代史上、ここまでメディアリテラシーが、そしてジャーナリズムが問われる時代もないと本気で思のです。
今回懇親の席で「私は日経新聞しか読まないです」と申し上げましたが、
良い悪いではなく、日経新聞を読んでいても、心を動かされるような言葉に出逢う
ことはほぼないと感じる自分が居ました。でも、日経を読まないとどこか取り残され
そうでそうしているのです。結局日経を読んでいてもメディアリテラシーはあまり養われないと思うのです。だからこそ、もっと広い視野で、情緒ある素晴らしい言葉と出会っていく必要と思います。だからこそこの塾に足を運んでいるのだとも思うのです。
纏まりない所感となりましたが、最後に、
「メディアの向こう側」は対岸の火事にしてはいけない、いつか私たちの発した思考や言葉は、いつか後世の子孫という対岸に届くのだから。
私たちは言葉でできている。
(野地数正記)