第62回粒々塾講義録

今回のテーマは、言葉を「考える」。

「考える」とは、言葉の意味を考える。言葉から何を感じ取るかを考える。
つまりは、具体的にその言葉の本質を考えるという定義である。

空気「思考停止状態」が蔓延する現代の日本社会。
このような時代だからこそ、物事を考える伝える手段として、言葉がある。

ここで、紹介されたマザーテレサのことば。

思考に気をつけなさい。それはいつか気になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

塾長は曰く、この五行の言葉こそが、この粒々塾の本質そのもの、つまりは塾の原点であると。
どのような言葉に接し、それらの言葉にどう感銘を受け、その言葉を用いて話をし、何を伝えようとしてきたか。考えてから発する言葉の積み重ねは、人間力の構築に直結している。

塾生である私にとっては、言葉の本質を理解しようと試み、ソレラを自らの考えに何かしらのスパイスとして取り込む事が、一つの自己形成の糧となっている気がします。塾生にとしてこの特別な空間に身を置ける事に感謝。

あなたにとって言葉とは何ですか?
これを今一度問いかけたいと塾長。

ここで、南洲翁遺訓から抜粋した文章を紹介「何程制度方法を論ずる共、その人に非ざれば行われ難し。人ありて後方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己その人に成るの心懸け寛容なり」。つまりは、「どんなに制度や方法を論議しても、それを行う人の人間性や人格が立派でなければ、うまく行われない。自分がそのような立派な人になれるよう、心がけることが大事である」という意味。

表面に見える建前ではなく、内面に存在する本質。何よりも、そこが一番の肝である。

まずは本質を理解しよう。
「本質」とは何か?

ここで、一つの例え話。
「野良猫に餌を与えないでください」という看板があったとする。その本質とは、何か?
それは、餌を与える与えないの議論ではなく、本来そのような看板を出すことになった本質を考えること。つまり、「ソノ猫を捨てた飼い主がいるという」事実に目を向け、隠れたメッセージを見極めることだと。

議論とは、物事の原点や本質から始まるべきで、方法論からではない。
目に見える物事を論じるのではなく、目に見えない物事の本質を見極め論ずることが最も重要である。
本質を理解している人間こそが、正しく議論する場に立つことができる。

物事の本質を捉えることは、自ら考えるということ。そして、その工程の中に、様々な言葉が存在し、さらなる深い学びに辿りつく。

「言葉は刃になる」
言葉を発する人次第で、ソノ捉え方が大きく変わる。
だからこそ、言葉は人間力に直結しているのだろう。

議論とは、口論とは違い、各々が持つ考えを真剣にぶつけ合うということ。それには、自分が確固たるビジョンを持ち、それを言葉で表現する必要がある。話し合うことで、お互いを知る。熱き討論の果てに得る同じ目標を共有する仲間。相手を理解することで、己も理解してもらえる。

民主主義とは、”話し合う”こと。

現在の日本社会において「民主主義の本質」を、私たちは考えることが重要である。
この国には様々な問題を論ずる場所が非常に少ない。

「皆が先生で、皆が生徒である。」「皆が違って皆いい。」
馴れ合いではない熱き語らい。相手を敬いながらも、自らの想いを言葉に綴る。

この窮屈な現代の日本社会。言いたいことも言えない。声を上げることができない。
でも、声をあげ始めた若者たちがいる。これは、一つの希望。

声をあげたり、小さなアクションを起こすことで、ソコに人は集まりだす。そこから、一つの小さな流れができる。一旦流れ始まれば、それを止めることはできない。

どのような空気をつくりたいのか?

淀んだ空気に、新鮮な空気を送り込む。空気を送る側と、送り込まれる側の共通した問題意識とお互いがソレを受け容れられるだけの器量が必要だと感じる。互いに相手を敬いながらも、自分を持つ。議論の中でお互いを知る。同じ空気を吸うには、同じ空気の層に生きる必要がある。同じ目標を持つものが集まれば、お互いが切磋琢磨できる建設的な議論ができる。

プラセボ効果(偽薬効果)を分かりやすい言葉にすると、「思い込みの効果」。これは、薬だけではなく、言葉にもつながる。国内社会の様々な風潮「空気の流れ」は、言葉の影響力によって大きく左右されることがある。これは効きますよと言われれば、それを信じてしまう。つまりは、ブラウン管や紙面上に映る言葉に惑わされ、その本質を見極めようとしていない。知っているようで、実は知らない。

マザーテレサの言葉「言葉の暴力はとても恐ろしいものです。どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、神の恵み以外には、癒すことはできません」を引用。
神の恵み以外という言葉は宗教的なメッセージが濃すぎますが。

塾長は二つの例を挙げた。
一つ目は、香港の民主化運動で、二つ目は、ギリシャ問題である。
同じ目的が共有できていれば、話を詰めることができる。そして他を受け容れて、ベストな着地点を探すことができる。しかしながら、当然共有ができていなければ、自己を肯定させようとする言葉が飛び交い、何かしらの争いが起きる。

「東京のお菓子をあげて、生みたての玉子もらいぬ 恥ずかしくなる。」から受け取るイメージは?と塾長。正しい答えは無いのだがと前置きしつつも、このようにお話をされました。作者の恥ずかしさとは?東京都市生活者が抱く敗北感。つまり、玉子とは、命の循環を濃厚に感じてきた贈り物であり、それは地域への敗北感を表す。その現実を恥ずかしいと思った。それをあえて、口に出さないことが大勢いる中でも、それを素直に認めた。

社会には、多種多様な価値観が存在する。それをお互いが話し合う・認め合う事が、まずは重要ということであろう。

「あなたは痛みを知っている。だからあなたは医者に治せない傷を癒せる」。
同じ境遇・同じ立場を経験した人間だからこそ、同じ目線で物事を話すことができる。
塾長は、この塾を通して塾生に「考えるヒントを与える」、つまりは一人一人が「気づき」を得る機会をソノ場に創り出すことこそが役割だと話す。一人一人、人生の中で様々な気付きがあるが、塾という1時間の講義で、私たちは幾つの気付きを得るのか。それは、各々の受け皿の広さによって、変わってくるのかもしれない。また、「語り継ぐ」事の重要性を説く塾長。一塾生として、ここで気付き得た事を、自らの言葉に咀嚼して、後世に伝えることの重みと責任を感じた次第であります。

最後に、詩人である唐木順三の「詩と死」から「言葉を自由につかうことは実際むずかしい。自分の使う言葉、自分の書く言葉がいつの間にか自分を支配して来る。精神の自由とは恐らく言葉の自由と同意語であろう。」という文を引用して締めくくった。

人は喜怒哀楽という感情をもつ、それに呼応して言葉の使い方も変化する。塾のはじめに紹介されたマザーテレサの言葉とつながる。言葉とは、思考・行動・習慣・性格に起因し、それらは最終的に人間力という運命という名の人間形成につながる。

団塊の世代が築いた礎を、どのように次の世代が変化発展させるのか。また、ソノ世代が残した足跡を、どのように次の世代に渡していくのか。時代が移りかわれば、当然社会の考え方も変わる。常に、新しい考えや流れを独自の色に変え、すでに完成した絵画に修正を加えるような挑戦をし続けることが必要不可欠である。芯となるものは残しつつも、様々な枝葉を加えていくことが最も重要な事といえよう。

南洲翁遺訓の言葉にもあるように、すべては人間性。人生、常に学びである。つまり、人は常に進化の過程を辿る。変化を恐れればそこに発展はない、目の前の壁を越える事はできない。何事も常にチャレンジし続け、継続していくことが重要である。

最後に、私が常々心に留めている言葉でまとめたい。
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)
社会が日々移り変わる中で、何かしら自分の足跡を残したいと強く思う今日この頃です。

次回の塾の講義は、「民主主義」を語る。

(菊池亮介記)