第57回粒々塾講義録

「東北学 その26国家と民族と宗教と」

国家と民族と宗教 どれを一つとっても難しいテーマである。
しかし塾長が東北学でこの題材を挙げてくださったのには訳がある。

イスラム国事件ってどう思う?」

この問いが日本全体を覆っているからではなかろうか。

望月さんがこう発言された「今年11月の時点で外務省が日本人の人質(後藤健二さん)情報を掴んでいたにも関わらず、なぜ安倍首相は中東を訪問し、あのような発言をしたのか、何か国家というものの在り方が変わってきている気がする。」

塾長は「例えば一昨年、ジャーナリストとして中東を取材中の山本美香さんも戦禍に巻き込まれ亡くなっているが、今回ほどの騒ぎになっていない。それは今回の話が「政治」と密接に絡んでいるからではないか。」と続けた。

講義の内容をいささかの付言をして書いていく。

テーマである「国家」と「民族」と「宗教」。これらをどうも複合的に考察しないと、
この問題は捉えるのが難しいようだ、前回の講義にあったシャルリー事件もまた同様である。私たちは、事件を通し、また考える機会を得たのである。
捉え方によってはこれもまた「哲学」といえよう。我々は「思考」を求められている。

戦争の当事者は正常でいられない、そして私たちは後藤さんのようなジャーナリストの元でしか
事実を知れないという現実がある。

安倍首相は今回の事件を受け、イスラム国に対し「今後国民に指一本触れさせない」というが、それはどういうことか?現実にはそんなことは出来ないはずだが。

憎しみに連鎖が続いている。この渦中に身を置いて考えるのか、一歩外から見て考えるのか?
「3.11」以降我々はもう一度岐路に立たされているという気がする。

広辞苑』から国家 民族 宗教を引用してみる。

「国家」 
一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる

「民族」 
文化や出自を共有することからくる親近感を核にして、歴史的に形成された、共通の帰属意識を持つ集団。特に言語を共有することが重視され、宗教や生業携帯が民族的な伝統となることも多い。
国民国家の成立によって、明確な境界を持ち、固定的なものとされたが、もともとは重複や変更が可能で、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲と必ずしも一致しない。

「宗教」Religion
神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑欲なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また「、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会を営む。
アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民族宗教
世界的宗教、すなわち仏教・キリスト教イスラム教など、多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何等かの形で持つ。

何れも主観は交えていない。辞書にある文言。これを念頭に講義は進む。

国家とは 形 
民族とは 集団
宗教とは 心・精神性

ソクラテスの弟子であるプラトンは『国家』の著者であり、サブタイトルを「正義について」
としている。いわゆる師ソクラテスの授業(講義)をまとめた書物である。
彼は「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた」として国家反逆罪で死罪になった。
プラトンはそれを「負」という言葉で捉えた。

プラトンは「国家」を罪名にあげられたので、「国家」とは何かを考えた。
彼は理想国家の国政には、哲人王(哲学者の王)による統治が最も優れているものであるとした。

哲人王に必要なものは「知と魂」であり、「理念と精神」いわゆる過去に塾でも取り上げたイディア(Idea)論である。

プラトンは中学時代にレスラーであった。プラトンとはギリシャ語で「肩幅の広い人」を指す、もしかしたら当時のリングネームだったのかもしれない。

また「プラトニックlove」という言葉がある。このプラトニックもプラトンにちなんだものだそうだ。
「普遍的少年愛」と解されている。これを認めないと、後のダビンチ、世阿弥、三島由紀などの歴史に名を寄せた人達も語れない。「美」として存在する言葉だ。

プラトンは「アカデミア」という学園(理想の「国家」)を立ち上げ、いっさいのイデア(知)とプシュケー(魂)に形を与えることを試みた人物でもある。

国家を考える上での哲学的考察。

日本は、明治維新を経て「近代国家」になった。「国家」が形作られた。

政治学者としての丸山真男の著作『国家と個人』。
彼はこの中で、“国民は国家に対し、ある一定の距離を保ちつつ否定的独立を保持すべきだ”
との言葉を残している、これは「社会契約論」のルソーの思想とも一致している。

ここまで思考を重ねたうえで、再度の問い。

イスラム国」は国家であろうか?
IS ISIL ISIS ダーィッシュとも呼ばれる「イスラム国」。
人口は800万人とされるが、誰もあそこを国家として認めてはいない。

“東北学”の観点から視点を変えた話になる。

三島由紀夫鈴木邦男をという右翼、民族主義者としての国家論が紹介された。

三島由紀夫、本名平岡公威(こうい)は、実は平岡定一郎という祖父が明治35年から2年間福島県知事であったことを知る人はいるであろうか。
彼は学習院中等部から高等部にかけ軍に入隊したものの、体が弱く戦地には行けなかった。その後、東大→農林省→大蔵官僚という華々しい経歴の中、役人を続けながらの作家活動だった。小説には『仮面の告白』『金閣寺』『サド侯爵夫人』などの作品がある。さらの「憂国」「豊饒の海」。そこに展開される日本語は美しい。三島も「美」を追い求めた人。前述のプラトンと重なる。

一方で「楯の会」を結成し、三島事件で「檄文」を公表したことは日本の暦に深く刻まれている。
「1億総中流」を求め「トランジスタの商人になった日本人」。彼はそんな言葉を用い、当時日本の堕落した精神を深く憂いた一人であった。
 映画「三島由紀夫と若者たち」にて、市ヶ谷駐屯地シーンのロケ地が郡山の合同庁であったことも東北学のご縁を感じる。極めて美意識が高い三島は全共闘運動に非常に興味をもち、安田講堂事件時に単身乗り込み全共闘の幹部に「俺と協議をしよう」と延々六時間に及ぶ「話し合い」に臨んだ。
天皇陛下万歳」と言ってくれさえすれば君たちの側に立つといった無謀な発言の一方で、全共闘の幹部に、相容れないながらも、言霊が届いた一面もあったという。

塾長が講義内で朗読された『檄文』のリンクを張るので是非一度読んで頂きたい。http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
これも一つの「国家」の在り方であろう。

日本教について』という本がある。イザヤベンダサンというユダヤ人の筆名で山本七平が書いたもの。その中に有る論考。日本には宗教はない、あるのは日本独特の「日本教」だという。
この書籍で三島由紀夫のことを滔々と書いている。『檄文」を「こんなに論理的な文章はない」と絶賛しているのである。

もう一人の人物 鈴木邦男(1944年郡山生まれ)、「一水会」代表である。書籍『反逆の作法』にて、日露の戦争で日本が「大勝利」をしたことについて触れている。日露戦争は、かろうじて講和に持ち込めたのであって、本当は「大勝利」ではなかった。しかしながら日本中が沸き立った。
強国ロシアを破った日本は神国だ、いざとなったら神風が吹くんだと大喜びし、そして思い上がった。

「負け戦」からは人は学ぶが、「勝ち戦」からは何も学ばない。傲慢になる、そこから日本の間違いが始まったとしている。

どこかプラトンの「負」と似てはいまいか。

日露戦争をしっかり学んでいれば、日本と米国の戦いはなかったとも発言している。
また、現在安倍政権に対しても集団的自衛権の行使を憲法解釈だけでのりきろうとするのはあまりにも行き過ぎではないだろうかとの発言もしている。

「宗教」とは多様な価値観にあるが、一方で一つの価値観にくくってしまおうという怖さがある。
イスラム国はイスラム教で世界を制覇すると豪語している。それにはアメリカからも英国からもフランスからも若者が参加しているという現実がある。一種の閉塞感の矛先としてのイスラム国。

「宗教」とは心の平安を説くものであり、「許し求めるもの」に愛を与えること。
許す(許可)と赦す(罪を赦す)であるが、後者は当用漢字から消えてしまった。

講義は時間切れで持ち越しになった部分もある。

若干、自分のコメントを書く。

今回の講義、「イスラム国とは何か?」は深い問いかけとなった。私達はいつも物事の表層に目が向きがちである。イスラム国という曖昧なカテゴリーに、私たちの思考は戸惑う。後藤健二さんを自己責任と吐き捨てる人。単なる狂気集団が起こした問題と捉える人。シリアやヨルダンといった渦中のその人々と気持ちを重ねる人。南北問題と比較する人。我々もまた「負」を突きつけられた「出来事」となった。しかし、この問題を考えるうえで、安易に答えを出すことは不毛であり、無関心このうえないと思う。真に私達が見なければいけないことは、今存在するイスラム国もさることながら、第二第三のイスラム国を生み出しうるこの世界そのものであろう。とくに日本国に住む我々の責任は小さくない、国家の在り方、民族の在り方を三島由紀氏のように命を懸けて繋いできた先人の生き様に容易触れる環境が私たちにはある。考えることができる。しかし戦地に過ごす人々は塾長の言葉にあるように正常でいられない。私は毎晩このニュースをテレビで拝見し、就寝前にリモコンの電源ボタンを人差し指で押す行為に、なんとも言えない後ろめたさを感じた。私がスイッチを押せば、「イスラム国」はその瞬間、私の前から消えてなくなる、少なくともここ日本では。しかし渦中にいる罪のない人々は、同胞の暴挙に怯え、アメリカの正義に怯え床に就くのである。同じ人間でこれほどまでに環境が違うものかと。だから私たちは「考える」という行為に責任があり、「奪う」より「与える」という行為を率先して行う義務がある。何よりも避けなければいけないのは、「思考停止」であり「無関心」である、私たちが持ちうる「選択の自由」は、時として誰かの「不自由」の上で成り立っているかもしれないのだから。


                                「野地数正 記」