第55回粒々塾講義録

テーマ 東北学その24〜今夜は「哲学塾」〜2014.12.10

東北学のテーマも今回で24回目、今夜は哲学塾です。
『ぼくのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。』
これは何か知っているか?塾長が問いかけます。
答えは、日本新聞協会広告委員会が開催したコンテストの受賞コピーでした。

<幸せや正義の定義は、一つではない>
桃太郎と言えば、桃太郎がサルやキジを従えて鬼を退治しに行くお話で、桃太郎は正義の味方です。作者はこの話を全く違う視点で表現しようと思ったのです。

さらに、福澤諭吉の「ひゞのをしへ」から桃太郎盗人論を紹介。
内容は、「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからん事ではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。」
こちらも桃太郎を鬼の側から見たものです。

もう一つ、『ボクのおとうさんは、ボランティアというやつに殺されました。』
こちらは、青年海外協力隊に参加している青年が前述の桃太郎のコピーをみて、(僕がやっていることは、満ち足りた幸せな暮らしをしている山奥の村人に「不幸な人生を送っている」という劣等感を植えつけ、彼らの食文化や伝統的な暮らしをぶっ壊すことではないか)との思いから投稿したブログのタイトルです。

どれもが幸せや正義の定義は、一つではないことを表現したものです。
物事の道理は一方の見方だけで判断できるものではなくそれぞれの人々の見方で変わるものなのでしょう。

哲学とは言葉で道理を明らかにすることであり、思考を深めることでもあります。
哲学には、さまざま哲学があります。経営哲学、政治哲学、人生哲学・・・。
どの哲学にも人それぞれの道理が存在し、それらを明らかにするために思考を深め言葉にするのです。
それは、我々の生活のなかの何気ない行動や人生観を決定するための思考であり、それこそが哲学なのだと考えます。

これらのものの見方は他にもみられます。
「美」についても定義は一つではありません。
それらもそれぞれの人の価値観や時代によっても変わってきます。

哲学的な意味合いでは、美は完璧さの理想と関わるものだ。だが、絶対的な美しさも、内的・外的な美の一致も到達不能という結論がでてしまうし、さまざまな哲学の流派がこのジレンマを指摘している。フランスの作家スタンダールは「美とは幸福の約束にすぎない」と記した。

つまり、美しさは完璧であり理想ではあっても決して幸福を確信させるものではなく、約束でしかないということでしょうか。

<生とは何か、死とは何か>
生とは入口であり、死とは出口である。
実存とは死を取り込むこと。
死を思うことで自分の今までの生き様が見えてくる。

千日回峰行という修行がある。
慈眼寺(慈眼寺)住職 塩沼亮潤(しおぬま りょうじゅん)氏が、平成3年から11年の9年間をかけて行った修行で実に吉野山金峯山寺1300年の歴史で2人目となる。

氏がこの行を通して学んだことは、「よく反省すること」「よく感謝をすること」「思いやりを持つこと」の3つ。
“人間は自分が与えられた環境や人間関係において、普段は自分が悪いと反省することなく生きていることがほとんど。そういうことに心を傾けた時に人間は成長する。
与えられた環境に感謝をし、生かされているということに感謝をする。
人に対する思いやり、人の身になって考えるということをできるようになって、初めて成長が始まるのではないか。“

このような考えは、3.11の震災後、多くの人々が感じた思いではなかっただろうか。
そういう意味では、震災を経験した我々は、人間としての成長を遂げることができる時を生きているのではないだろうか。
今の自分を振り返り、このような思いに至っているかを問い直して行きたい。

<即自存在・対自存在>
即自存在(ソクジソンザイ)Being-in-itself
とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言う。
対自存在(タイジソンザイ)Being-for-itself
とは、何ものであるかを規定せず、自己と向き合うことを指す。

いずれもフランスの思想家サルトルが表しました。
サルトル的には、世の中にあるあらゆる物事(存在者)には、 二通りの存在の仕方がある。 意識(と意識を持つ存在者、とくに人間)は、対自的に存在していて、 それ以外のものはすべて即自的に存在している。
意識について考えてみると、「考える自分」(主体)と「考えられる対象」(客体) という二つの要素がある。たとえば、わたしがこの目の前のマウスを意識するとき、 そこには意識する自分と意識されるマウスがある。 このように、意識においては「考える自分」は「考えられる対象」 から切り離されてある。
人間は道具のようにその本質を与えられているのでなく、気づいた時にこの世に生まれて、生きているものであり、そのあとで自分を造っていくものだから。
人間は自由であり「人間は自らを造るところ以外の何ものでもない」 。

これらの考えは塩沼亮潤 氏が「人の身になって考えるということをできるようになって、初めて成長が始まるのではないか。」と説いた事と重なるように思う。

<教育・学ぶ>
学ぶことによって選択肢は狭まるのか、広がるのか。

松下幸之助は「塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できない。だが、なめてみればすぐ分かる。」と言った。
(実感することができれば、それがどんな物なのかを理解できる。
人からいくら言われても、自分で感じてみることに勝るものはない。)といった意味です。

つまり、学びとは、単に知識や学問としての学びではなく自らが感じ、共感できる学びでなくては
真の学びとは言えないのでしょう。

フランスでは哲学教育を重視していると聞いたことがあります。
調べると、高校生は哲学が必修科目であり。文系理系を問わず週4〜8時間の授業を受けるようです。
また、大学入学資格試験(BAC)という日本のセンター試験のような試験でも哲学が含まれます。
フランスでは、「考えること、自分の意見を持ち、発言すること」を重視するためのようです。
全てを肯定するものではありませんが、こういう教育も必要なのかも知れません。

<否定形の社会>
人間は自由なものとして生まれた、しかし、いたるところで鎖につながれている。
〜ルソー・社会契約論〜

これは、社会契約論の冒頭の一節ですが、市民社会の正当性の原理はありうるか。自由と平等の正当性の原理は何か。これから向かうべき市民社会の可能性の原理はどこにあるか。
ルソーは社会契約論でこれらを問題提起しています。

この辺りの話は、以前学んだ民主主義とは?に通じる問題でしょうか。
自由とは何なのか、平等とは何なのか、深い話ですね。

もし、明日世界が滅びようとも、私はりんごの木を植える。〜マルティン・ルター

意味は、「明日世界の終わりが来ようとも、人生の幕が閉じようとも、最後まで為すべきことを精一杯やり遂げる」、ということです。
しかし、ここで書かれているりんごの木とは、アダムとイブの「りんごの木」だそうです。
「腐敗した教会がどんな迫害をしてこようとも、私は私の考えを貫いて若い世代を啓蒙していく」
といった意味もあるようです。

自分に置き換えれば、眼前の為すべきことを精一杯やり遂げることすら出来ているのだろうか。
考えさせられます。

今回の講義、哲学については全く縁遠く学んでこなかった分野でした。
しかし、悩み考えることも哲学であって、それこそが自らの心の軸を造ることにつながるのではないでしょうか。
全く旨くまとめられませんが、普段使わない脳のトレーニングになりました。
ありがとうございました。

今年も宜しくお願い致します。


(渡邉 平)