第33回粒々塾講義録

第33回粒々塾のテーマは、先月に引き続き「東北学〜その2」。

これまでも塾では、震災を通じて見え隠れしたものをさまざまな角度(テーマ)から検証し、
たくさんのことを考えてきた。
先月に始まった「東北学」というテーマは、学問としての「東北学」ではなく、
在り様としての「東北学」を通して今の東北・今の日本をどう見るか、
どう考えるのという試み。

問題意識は今の東北を語らずして、日本を語ることはできない。
また、今を考えずに将来を語れずというもの。

震災直後に野菜作りで身を立てていた1人の農家の主が自らの命を絶った。
TVのnewsでも報道されたが、その報道内容は将来を悲観してというような内容。
しかしそれが本当の真実だったのだろうかという疑問。
野菜作りに人生の多くを費やした一人の農民の死は、
命をかけた原発反対のメッセージではなかったのかと。
Fukushimaの現実を知らない人々が熱に浮かされたように繰り広げた原発反対運動。
Fukushimaに生きている我々はその光景に違和感を覚えた。

原発が誘致された立地地域には様々な飴が用意されたのも事実。
また、それまでは冬の間、家族の元を離れて多くの大黒柱が出稼ぎに出た。
原発はその家族の状況を変化させ、地域の経済に好循環をもたらしたのも事実。
大きなうねりの中で地元の人々は信じるしかなかったのではないかと。

一方で原発事故以前からも、中央から押し寄せてくる力に無抵抗だった地元の現実がある。
少なくとも東京から持ち込まれるものは世界に並ぶ最高の水準にあって、
間違いは存在しないとすら思ってきたのではないかと。
塾長は、これを「受け身の楽観主義」という言葉で表現した。
3.11はこの中央合理主義、東京信仰が崩れるきっかけになった。

今、被災したFukushimaは自分自身で価値観を作り出せるか否かにかかっている。
3.11から本当の意味で復興を成し遂げるとは受動的な幸福感に安心することではなく、
我々自らが幸福の価値を見出し、それを作り上げる作業なのではないかと思う。
そのためにも自らのバックボーンを考え、新たな活力を創出していくことが
求められるのではないだろうか。
今、東北を考えることは、いまを生きる我々の心の近代化の過程なのだと。
これからも塾の仲間と共に学びを深めていきたい。

                                   (望月記)