第25回粒々塾講義録

こんにちは。議事録担当の伊藤です。皆さんの前回までの議事録を拝読し、さて私はどうやって書こう…と日々悶々としているうちにあっという間に提出期限が過ぎてしまいました。遅くなりすみません。
 さて第25回の粒々塾、冒頭は『三和土』という言葉の読み方を塾生に問いかける所から始まりました。この『三和土』という言葉、『たたき』と読むそうです。“土間”という意味で、叩き土・消石灰・にがりと3種類の材料を混ぜ合わせて作ることから、この字になりました。俳人中村草田男はこの『三和土』という言葉を使って一つの俳句を作っています。

焼跡に遺る三和土や手毬つく (『来し方行方』 自文堂 1947年)

終戦後の焦土の中、わずかに平らな三和土の部分を見つけて子供たちが手毬をついている情景が浮かんできます。塾長はこれを今風に語句を変えて詠んでいました。

家跡に遺る三和土やボール蹴る

現代にも通じるものがあります。

 続いて本題です。まずは前回の続きである「方言」について講義して頂きました。方言はいわば生きた文化遺産であり、その地域独特の風俗や文化を知る上で貴重なツールとなります。また、方言を使う事で同じ地域に住んでいる者同士仲間意識や一体感のようなものが芽生えますし、異郷の地で出身地が同じ人に会って、その地域の言葉を聞くと独特の親しみや安堵感がわきます。逆に方言が伝わらない故郷以外の場所での生活では、不安や疎外感、ストレスを感じる事もあります。かの石川啄木も自身の短歌で

故郷の訛り懐かし、停車場の人ごみの中、そを聞きに行く

と詠んでおり、東京暮らしが続く中で故郷の東北弁がどうしても恋しくなり、少しでも故郷を感じる為に東北行きの列車が発着する上野駅に足を運んだとあります。だからこそ同郷出身者の結びつきは非常に強く、地方出身者が多い東京においては『○○県人会』等の会合をよく目にする事があります。余談ではありますが、中国華僑の間では、中国語であってもその出身地によって使用する言語に大きな違いがあり、その分同郷者の結びつきの強さは日本の比ではありません。そしてこの同郷者で構成されるコミュニティーが現地の政治・経済に非常に大きな影響を与える場合もあります。
 しかし近年では特に若年層において方言離れが進んでいるといいます。例えば山形県鶴岡市では、昔から「ねこ」のことを「ねご」と言っていましたが、今ではあまり使われなくなりました。ある研究では、2030年頃には方言自体が消滅してしまうのではという結論も導き出されています。ちなみに講義の中で塾長がフランス語に聞こえる津軽弁を披露して下さり、それが印象的でした。トヨタ・パッソのCM内でコミカルにやり取りされていたものですが、とても楽しかったので意味を調べてみました。
 
わのかでぱん                 (私のかたいパン=フランスパン)
すけるめに なべさぁふぉんでゅせば       (湿気る前にお鍋でフォンデュすれば)
うだでぐぅめよん (美味しいですわよ)
せばだば やってみらー             (それならやってみますわ)

これといった方言を持たない筆者にとって、この独特な津軽弁の響きはある種神秘的であり憧れすら感じます。この魅力ある方言を後世まで伝えていく事は今を生きている者の義務であると言えます。
 方言はその地域に暮らしている人々に一体感や仲間意識をもたらします。しかし他方、外部から来た医師にとって方言は患者とのコミュニケーションを取る上で大きな壁となっていました。そこで活用されたのが『東北オノマトペ』。東北に派遣される医師に東北地方で使われる独特の言い回しや擬音語などを編集したものを配布しました。国立国語研究所が現地の医師の依頼で作ったものだということです。

 また、人の名字には地域の名前や特性が色濃く反映されている場合もあります。例えば福島、川崎、宮崎など地域の名前がそのまま名字になっている人もいれば、鹿児島県であれば「まつもと」は「松元」、「やまもと」は「山元」、沖縄県であれば「仲」という字を使うなど、地域言語の特性が名字に使用される場合もあります。しかし昨今、行政の命名権売買活動によって本来の名前が商業施設や企業の名に取って変わられる例も頻発しています。(例えば業平橋駅が東京スカイツリー駅に、愛知県挙母(ころも)市が豊田市など。)行政の財政が逼迫し苦肉の策だったとしても、元の名前の由来や歴史を一切無視して名前を売却してしまう行為には首を傾げざるをえません。

 方言の後はもう一つのトピックである「メディアの“力”」について講義して頂きました。ここでのキーワードは「報道の自由」。
まず憲法の前文に目を通すと、「…わが国全土にわたって自由のもたらす恩恵を確保し…」とあり、その後各条にわたって自由という言葉が散見されます。ここから日本国民にはあまねく「権利」として自由が保障されている事が分かります。
ではそもそも自由とは何でしょうか。日本語で表記される「自由」、英語ではlibertyとfreeの両方で訳されます。Libertyは圧政・暴力的支配からの自由、解放の意、freeは拘束を受けない、外部の干渉にとらわれない自由を意味します。
それでは報道の自由とはどちらの自由の意味でしょうか。前回のうっしーさんの議事録にもありましたが、ツイッターSNS、ブログやネットの書き込みを通じてあらゆる人が発信者となり、本来であれば信頼するべき新聞やテレビなどのメディアまでが錯綜する情報に踊らされる始末であり、巷には真偽の区別さえつかない情報が溢れ出ています。日本は昔新聞やラジオなどの報道内容が全て支配・管理されていましたが、その時代は終焉を迎え報道は解放という意味の自由を手にしました。その自由を当たり前のように享受できるようになった今日、過渡期を迎えた報道には内容の質や発信側の責任が強く求められるようになってきています。
報道の役目とは、①事実を伝えること、②世論を形成することであり、今後のあり方について本腰を入れて考え直す時期に来ていると言えます。
この続きについては次回の講義でお話して下さるそうです。

以上徒然なるままに書きましたが、書くって思いのほか楽しいことです。数週間前の講義の内容を思い出しながら脳内の引き出しを探り、あーでもないこーでもないと試行錯誤しながらパズルのように言葉を当てはめていきました。書くことで塾長が話された言葉をインプットする事が出来、新しい発見もありました。
またやりたいです。次は遅れないように…、頑張ります。よし。

伊藤優子