第23回粒々塾講義録

テーマは「〜ストレスというリスク〜」ということでした。

人間は、聴くことよりも、伝えることの方がどうやら好きらしい。
塾長がレジュメに引用された徒然草。言わずと知れた兼好法師の随筆を基に、
『我々は、無意識的に「うちあけ」とか「愚痴」とか
「日誌・手記・感想文をつづる」などの形で“外面化”をしている、
と塾長は述べておられた。
そう考えると、人間は兼好法師の生きていた時代から、
そんなに変わっていないのだなとも思う。
トホホ、と思うことや、この世の嘆きを徒然なるままに書く。
日記は本来、人に読まれることのないものだと思っていたが、
あらためて考えたら、もしかしたら昔の人たちは「読まれることを前提」
として書いていたのだろう。
そう思うと、多くの人が「読まれること」を前提に書かれているブログ。
今の世の中を、兼好法師は『やっぱり、読んでもらってナンボ』と
雲の上でほくそ笑んでいるのかも知れない。

それだけに、語ることへの『リスク』も、
昔の人は『俳句』や『ことわざ』というスタイルで警告している。
物言えば唇寒し秋の風』『禍は口より出ず』 とレジュメにはあった。
私にとってはどれも身に覚えがあり、
唇だけではなく背筋まで凍ることも多々あったりするのだが、
そんな人間の愚かさを分かっているからこそ『クスリ』としての役割も
人間は言葉に託したのだろう。
 (※リスクとクスリの表現については、吉田五月氏の第22回講義録より引用)

『言霊』の存在は、皆の幸せを願い、普段から丁寧に言葉を使うことで、
人間がより良い方へ生きていけると信じる気持ちが基となっている。
このような思想を生みだし、今日まで伝えてきた日本の文化を、
私はとても誇りに思うし粒々塾という場で、私たちはお互いに、
聴くだけでなく、書くだけでもなく、話し合うことで心の中にある
言葉と魂を磨いているのだ。
たとえ、愚痴をこぼしたとしても、その中から大事なものを見つけ、
気づかせてくれる。
視点の違いは意見の相違として、ストレスの原因になりがちだが、
“優劣”や“善悪”ではなく、「異」として尊重することは、むしろ
ストレスの回避につながるのではないだろうか。
たくさんの引き出しを持っている塾長、塾の仲間がいることは
本当に有り難いことだと思う。

そして、今回のメインテーマでもある『ストレス』について・・・。
実は私は15歳の時に、あるストレスが原因で十二指腸潰瘍を患い、
入院した経験がある。
病名を告げた医師は「子どもが罹る病気ではありません…」と
呆れた顔でため息をついた。
もう大人だと思っていた私のちっぽけなプライドは傷つき、ぎゅっと胃が痛む。
病室はみな、慢性疾患のおばあちゃんばかり。
「あんたは若いんだからすぐ退院出来るよ。」
という言葉が、数日後、嫌味だということを知り、更に胃が痛くなる。
不自由な生活を強いられ、治るためにここにいるのか、
そうじゃないのか分からなくなった。

比較をするには差があり過ぎるけれども、仮設住宅で生活されている方や、
避難を余儀なくされている方も、同じような気持ちではないかと思う。
安全のために避難したのに、待っていたのは安心出来ない生活。
そのストレスがさまざまな病気を誘発する。特に精神性の疾患の増加が目立つそうだ。
心の病気は、目には見えにくい。そして自分で気がつくことも難しい。
だとしたら誰が気づいてあげられるのか。彼らの自尊心を取り戻すことが出来るのか、
私にはまだ答えも、かける言葉も見つけられずにいる。

だからこそ、レジュメにあったマザーテレサの言葉には、深く考えさせられた。
人間の弱さを認め、受け容れることを前提として、
どうあるべきかを述べている所に彼女の人間に対する深い信頼と強さを感じる。
彼女は『死を待つ人の家』という場所で、余命いくばくもない患者のケアを始めたが、
これも死という逃れられない事実(ストレス)を、どのように受け容れていくか
ということを考えて作られたのだと思う。
だからこそ、彼女の言葉には聖書の一節、詩篇のような趣を感じる。
命と真剣に向き合った人間だからこそ、語れる愛がそこに宿っているのだ。

子どもたちの詩もまた同様である。
多分、子どもたちの詩が無かったら、私は今こうして前を向いて歩くことはなかった。
相手を疑い、批判し、怒りという正義を振りかざし、言葉の礫を投げつけていただろう。
子どもたちの詩は、そんな醜い私を赦し、諭してくれた。
どんな時も子どもたちは命を見つめ、人間として何が大事なのかを知っている。
無垢な言葉は自然から湧き出る清水のように、魂を濯ぎ、潤してくれる。
「ありがとう」の言葉の意味も、「ただいま」の重さも、そこにあなたがいてくれて、
自分がいることが嬉しいという気持ちの表れだということ。
今、ここに私たちが存在することは必然であり、奇跡であるのだと。

最後に、ある歌人の歌をご紹介する。美原凍子という福島県出身の彼女は、
朝日歌壇の常連である。彼女は若い頃夕張に移り住み、郷里の福島市に戻った直後に
震災に遭う。この歌は災後に詠まれた2首である。

  それでも春は巡り来てけぶるがに 咲くふくしまのうめももさくら

   六万の人ら去りたる福島の山河にさみしき春の陽炎

昨年は喪の色に咲いた桜。でも今年の春は違う。そうでなければならない。
歩き始めた私たちに、寄り添うように花が咲き、語りかけている。
それでも、生きていくんだよ、と。
どんな困難が起きようとも、私は自分の胸に言葉を携えて行こうと思う。
足元に咲く、野の花のような言葉を。

                                (橋本記)